彼女が卒業式の袴姿でお母さんに連れられてしおらしく装い初めて寂庵へ訪れてから、もう十年以上になっています。その間に、結婚して、男の子が出来て、その子がもうすぐ喋りそうになり、私になついて、まだ言葉も出来ないのに、全身に親愛感をあふれさせて、飛びついてくる可愛らしさは、九十九歳の現在の私の何よりの慰めになっています。この子がノーベル賞を受ける授賞式に出席できないのが、今、何より残念でなりません。

 もうすぐ、口がきけるでしょう。それからは話が出来ると、楽しい期待に喜んでいます。

 近頃、よく入院するようなことが多くなりましたが、いつでも、必ず治り帰ってきます。

 百三歳くらいまで生きるような気がしてきました。

 もう一つくらい、長編の小説が書けるのではないでしょうか?

 一度お逢いしたいですね。生きている間に。

 奥様にどうか、およろしく。

 では、また。

■横尾忠則「これからも趣味で生きて趣味で死にます」

 セトウチさん

 病院好きの僕と代って、このところよく入院されますね。羨(うらや)ましい(半分冗談、半分本気)限りです。僕にとって入院はある種の脱皮現象だからです。入院という非日常的空間で別人になれること、病室をアトリエに模様替えすることで、変身願望が達成されます。病院は自己変革の装置じゃないですか。ここ1年はコロナ禍で大人しくしているので病気とも縁がなく、お陰でまあ健康体ってとこですかね。コロナを理由に全盛期(体力の)並みに100号大の絵を25点(まだ描けそう)描きました。

 終日アトリエに籠(こも)っているので運動(手を動かす程度)不足で、歩くと一分程度でヘトヘトですが病気ではないと思ってます。セトウチさんは時間があると読書に励まれますが、僕はできるだけ無為状態を作って頭を空っぽにします。絵にとって観念は敵です(僕の場合はですよ)。寂庵はきれいな人工的な自然に囲まれていて本当に素晴しいです。それに代って我がアトリエはアマゾンの密林です。アナコンダはいないけど青大将ぐらいはいます。バルコニーに出ると熱帯のムッとするような空気と匂いがワッと押し寄せて、野生のエネルギーに包まれます。文学的ではないけれどアヴァンギャルド的です。傑作ができないはずはないと暗示を掛けます。絵は暗示です。そして「傑作がデケタ!」と過去完了形で考えます。極楽トンボでしょ。ゴーガンが何や、ゴッホがどないしたんや、わしは河内のラテン系や(父は河内出身です)。何か起ると、「シャーナイヤンケ」とすぐ諦念の思想に変ります。

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