このときは文部大臣の岡部長景がインタビューに応じ、学生に向けて「喜んで国家の大使命達成の人柱となってもらいたい」と、戦死を奨励した。記事には、岡部が出征する学生のために作詞した「海ゆかむ」という曲も、楽譜付きで紹介されている。保阪氏は言う。

「記事にある岡部文部大臣の言葉からは、知的な訓練を受けている学生を、戦地という暴力の場に出陣させることの苦しみがあまり感じられません。戦時とはいえ、教育が軍事に屈服している様子がよくわかります」

 一方、記者たちの中には厳しくなる検閲と闘う動きもあった。それでも、「せいぜい、小さな囲み記事で、ささやかなレジスタンス(抵抗)を続けるのが精一ぱいだった」(前出の元編集部員)という。

 保阪氏はこの「ささやかな抵抗」に注目すべきだという。その一つが、42年1月11日号に掲載された鈴木貫太郎海軍大将のインタビュー記事だ。

 鈴木は、敗戦が濃厚となった45年4月に首相に就任した。首相在任時は終戦工作に奔走した鈴木だが、42年1月の記事では真珠湾攻撃を「まったく大戦果でしたナ。有難いことです」と評している。

 ただ、現実派の鈴木らしく、作戦の分析は他の軍人より冷静だ。奇襲の成功は、荒れていた天気が回復し、燃料補給が順調だったことが大きかった。そのことを「天佑」(天の助け)と表現し、作戦への評価は「まかり間違えば全滅する覚悟」と厳しかった。

 保阪氏は、鈴木がこの記事で「海軍の優秀な戦略家」として佐藤鉄太郎の名前をあげていることに驚いたという。

「佐藤鉄太郎は、明治から大正にかけての海軍の理論家です。彼は、陸軍が満州を植民地にすることに反対し、日本は専守防衛に徹するべきだと訴えました。その佐藤の名前をあえて出したのは、侵略的な要素が強い日本軍の現状について、『もっと防衛的であるべきだ』と言いたかったのではないでしょうか」

 記者があからさまに「戦争反対」を訴えれば、軍部から目を付けられる。そこで記者は海軍大将である鈴木に語らせることで、戦争の危険性を訴えたかったのかもしれない。

 戦争末期には、隠された反戦メッセージが目立つようになる。

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