「(米軍は)三足す二は五と考えている。ところが、日本のは掛け算です。三掛ける五、或いは三掛ける十という掛け算をしたのです。それを向うは知らなかった。掛け算とは何かというと、日本は精神力或いは訓練というふうな目に見えないもので掛け算をした!」

 戦局の見通しも後から見ればあきれるほど楽観的だ。開戦時、日本は経済制裁を受けていて、石油の輸入が制限されていた。国内の石油備蓄は1年半程度しかない。もちろん、そんな“不都合な真実”は記事では紹介されない。むしろ、奇襲攻撃を受けた米軍側の立て直しが遅れると見て、平出はこう主張した。

「三年後に(米軍が戦艦を)補充できるまでは駄目でしょう。(中略)或いは(渡洋作戦は)永久にできないかもしれません」

 現実は3年後、日本の主要都市は米軍の空襲作戦で焼け野原になった。

 このころ、週刊朝日には軍人が登場する対談や座談会形式の記事が頻繁に掲載されている。「戦争の物語化」を進めたい軍の意向があったと思われるが、読者からの評判も上々だったようだ。

『朝日新聞出版局50年史』によると、41~42年ごろの週刊朝日の発行部数は35万部。それが、開戦の国民的興奮に乗って約50万部まで伸びたという。軍の意向に協力したことで、売り上げが増加したのだ。

 こうした誌面がつくられた背景には厳しい統制もあった。戦時中の週刊朝日編集部員の一人は、戦後に朝日新聞社の社内報でこう証言した。

「軍の圧力はひどく、検閲はきびしい。二言目には“発行停止にするぞ”とおどされる。軍からは、毎日のように禁止事項を伝えてくるので、とても細目をおぼえ切れず、社内に検閲専門のセクションを置いて、いちいち相談して記事をつくるというありさま」

 それどころか、編集部内には軍の“スパイ”のような部員もいたという。

「某という部員が軍を通じて部内をひっかきまわしたことさえあった。軍からは、つぎつぎと御用記事を持ちこんでくる」(元編集部員)

 社内報では、この某という部員は戦後に自殺したと書かれている。

 戦局が日本に不利になっても、記事の内容は変わらなかった。43年11月21日号では、学生が戦地に送り込まれた学徒出陣を大特集している。

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