石原裕次郎三十三回忌 まき子夫人が推す「裕次郎映画10選」 (2/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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石原裕次郎三十三回忌 まき子夫人が推す「裕次郎映画10選」

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週刊朝日

■「陽のあたる坂道」58年

 裕さんが“演じる”ということに開眼した作品が「陽のあたる坂道」です。不良っぽさではなく、ナイーブでシリアスな演技ができることを見抜いていた、大ベテランの田坂具隆監督が粘りに粘るものですから撮影が遅れて、映画館から「裕次郎の映画を早く」と催促が殺到。急きょ舛田利雄監督で「錆びたナイフ」(58年)を同時進行で撮ることになりました。舛田組で徹夜で撮影し、朝から田坂組のセット入り。すると「こんな大切な演技をする時に、真っ赤な目の二人ではやれない」と田坂先生が怒って中止になったことがあります。それほど、田坂先生は裕さんを大切にしてくれていたのです。

■「赤い波止場」58年

 上下真っ白なスーツにサングラスをかけた裕さん。スクリーンに映るだけで、あまりに格好良すぎて喝采を浴びた作品が「赤い波止場」。裕さんとは仲が良くて、本当にお世話になった舛田監督の作品です。逃亡者の裕さんが、私と東京の喫茶店について会話するシーンがとても好きです。このころになると裕さんの人気がすごくて、撮影隊が動きがとれなくなってしまう。こうした状況では、スムーズに街頭ロケはできないと危惧した日活は、撮影所の銀座オープンセットを拡張することを決めました。

■「太平洋ひとりぼっち」63年

 1961年、スキー場で骨折して8カ月ほど療養した時に、裕さんが病院のベッドで抱いた「夢」が自分で映画を作ることでした。今でいう抵抗勢力の猛反発を受けながら、63年に石原プロモーションを立ち上げて作った最初の作品が「太平洋ひとりぼっち」です。ヨットで太平洋を単独横断した堀江謙一さんの孤独な闘いを、裕さんが演じきった作品。プロデューサーとして初めて映画製作にかかわった裕さんは、自分を堀江さんに重ねていたと思います。

■「黒部の太陽」68年

 裕さんと三船敏郎さんが(専属スターの他社での仕事などを禁じる)「五社協定」を向こうに回して日本映画最高のヒット作を作り上げた。そのプロセス自体がドラマチックで「映画になる」と思える作品が「黒部の太陽」です。東宝の三船さんと日活の裕さんが共演するのは、当時はありえないことでしたが、あらゆる前例を覆してクランクインにこぎつけたのです。実現不可能と呼ばれた「黒四ダム」建設に命をかけた男たちのドラマで、裕さんは撮影中に大けがをしました。そのアクシデントに負けず、むしろチャンスにして完成させた作品です。

■「栄光への5000キロ」69年

 アフリカのサファリ・ラリーで優勝した日本チームの物語が「栄光への5000キロ」です。日活時代からの盟友・蔵原さんが監督でしたから、まるでフランス映画のような美しい映像に仕上がっていて、本当に素敵です。アフリカで長期ロケを行ったので、スタッフの方が時々所用で帰国しました。その時に、私は裕さんが好きな料理をたくさん作って、持っていってもらいました。裕さんからは、ロケ地で見つけたきれいな花を押し花にして贈っていただきました。

■「ある兵士の賭け」70年

 裕さんは、世界マーケットに通用する映画を撮りたいと、いつも考えていました。「ある兵士の賭け」は、ハリウッドの監督や俳優を日本に招いて撮影を続けたのですが、残念ながら、裕さんの思いは満足のゆく形にならず、興行的にも失敗。裕さんは「黒部の太陽」で「成功の甘き香り」を味わったけど、「ある兵士の賭け」では「失敗の苦汁」をなめたと言っていました。今、改めてこの作品を観ると、裕さんが抱いていた「映画への夢」を感じることができます。

 スクリーンの中の裕さんに今も会うことができるのは、とても幸せなことだと思います。裕さんの全盛時代を知らない若い方も、ぜひ映画の中で裕さんに会ってみてください。(談)

(聞き手・構成/佐藤利明)

週刊朝日  2019年7月26日号


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