母は姉にすべてを話して、サポートしてもらうことにした。そして空気のいい信州に戻って、私を産んだんです。でも体を壊して、私が2歳のときに、子どもがいなかった姉夫婦に私を預けたんです。

――こうして美川には2人の母と、養父ができた。だが美川が小学3年のときに養父が急逝する。

 人の借金の保証人になって、うちの家具にも差し押さえの紙が貼られて。養父はそのことに悩んで、脳出血で倒れたんです。

 私はその後、2人の母が働きながら苦労するのを見てきた。だから「早く自立しないと」と、高校を中退して、東宝芸能学校に入ったんです。養母のタンスからハンコを出して勝手に退学届を出したから、養母に怒られましたねえ。でも「大映ニューフェース」に合格して、半年間俳優になるための勉強をした。

 そんなときに歌のスカウトがきて、美川は迷わず、歌手の道を選んだ。1曲ヒットさせたら2人の母の面倒を見ることができると、一獲千金を狙ったのだ。しかし、18歳で青春路線でデビューするも、最初の2曲は鳴かず飛ばず。3曲目で出会ったのが「柳ケ瀬ブルース」だった。

 暗い歌だし、演歌っぽくて、レコーディングもいやでいやでたまらなかった。私がブスッとした顔で歌ってたらディレクターが「いいねえ、若いのに冷めてて。そのイメージでいこう!」って。衣装はタキシード、ステージでは直立不動で、って演出。これが大ヒットして。

 私は自分で自分のプロデュースをしているようなところがあるんです。「こうしたほうがうまくいく」というカンも働く。「さそり座の女」も最初はB面用の曲だったんです。でも私はこの歌に惹かれた。「絶対にA面にしてください」って強引にお願いしたんです。もしもB面だったら、ここまで息の長い曲になっていなかったでしょうね。

――だが、それから長い低迷期に入る。ヒット曲に恵まれず、1977年、大麻取締法違反の疑いで事情聴取を受ける。7年後の84年には逮捕。歌手としてのイメージは地に落ちた。

次のページ