おとなしくて、女の子とままごとばかりしている子どもだった。どうしても目を細めがちだったので、女の子からもいじめられることもあったという。

 小学校に入学した年の秋、麻原の人生に最初の転機が訪れた。家から40キロ離れた、長兄と同じ盲学校へ行くことになったのだ。

 子だくさんで貧しい家庭の先行きを案じた両親が、就学奨励費の受給を目当てに、転校を決めた。それが、後に世界を震撼させる「狂気」の下地を作ることになると、誰が思っただろうか。

「親に捨てられた」との思いを強くした麻原は毎日泣き、転校を嫌がったが、

「傾きかかった小屋のような家で、土間にむしろを敷いて生活していた。長い教師生活の中でも、あれほど貧しい家は、見たことがなかった」(盲学校小学部時代の教諭)

 という状況では、いたしかたなかった。

 全盲の生徒も多いなか、右目が見えた麻原は、勉強でも運動でも目立った。体格もよかった。中学部から柔道を始め、高等部で二段を取得。校内でバンドを組み、ボーカルを担当した。西城秀樹の「情熱の嵐」が十八番(おはこ)だった。

 こうして小、中、高、そして鍼灸師の資格を取った専攻科と、14年間の寄宿舎生活の間ずっと、麻原は同級生や下級生に君臨した。一方で、決して上級生には刃向かわなかった。

 小学部の時は、人形劇をまねた「サンダーバードごっこ」に熱中し、自分が隊長になった。紙で作ったタスキと帽子を同級生につけさせ、「1号」「2号」……と呼んで従えた。気に入った「隊員」には、キャラメルのおまけを与えた。中身は自分で食べた。

 中学部時代は寄宿舎の部屋で「プロレスごっこ」の毎日だった。同室の仲間同士を無理やり戦わせたが、麻原以外の5人は仲がいい。当然、遠慮し合う。すると麻原は「こうやれ」と言って、自分で仲間を殴った。殴っては笑っていた。

 お気に入りの取り巻きには優しかった。いつも子分のように振る舞う全盲の生徒がいた。麻原はその生徒に読ませたい本を手に入れてきては、同室の目の見える生徒に命令した。

「徹夜してでも、朝までに点訳しろ」

 翌朝、出来上がった点訳を、得意げに渡した。

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カネへの執着もすでに…