またそのダニみたいなヤツとの地獄の日々が始まって、このままではどうしようもないと親や妹たちに相談して、北海道に逃げることにしたんです。そのあいだも、ヒロポンはやめられませんでした。

――父と妹に見送られ、早朝の大阪駅で青森行きの汽車に乗り込んだ。途中の金沢駅で、「歌江ちゃん」と声をかけられた。運命のいたずらで、また「もう一つの自分史」が回り出した。

 父親の友達で興行師をやっている人でした。私のみすぼらしい格好を見て、ただごとやないと思たんでしょうね。とにかく汽車を降りなさいって言うて、家で温かいごはんを食べさせてくれて、相談に乗ってくれました。私は感動しながら「これは神様がくださったチャンスや。この人に全部おまかせして、立ち直らなあかん」と思ったんです。

 その人の勧めで、富山の料理屋で三味線を弾いて歌をうたう囃子方として働くことになったんです。着いてすぐ、ヒロポンを注射器から何から川に投げ捨てました。自分は生まれ変わるんや、と誓ったんです。

 三味線と歌は達者でしたから、お座敷からよう声はかかりました。ところが、働いても働いても、衣装代や食事代で借金が増えていく。芸者の世界っていうのは、不思議な仕組みになってるんです。

 せめてもの親孝行にと、毎月父親に5千円ずつ送ってました。今のお金で10万か20万か……。けっこうな額ですが、私と親きょうだいをつなぐ細い糸やったし、自分が心を入れ替えた証しでもあったんです。

 富山には7年ぐらいいました。お客さんに喜んでもらったけど、どこか物足りなさは感じてましたね。働けば働くほど借金が増えていく芸者の生活にも、嫌気が差してました。

――そんなとき「姉妹3人(歌江、照枝、花江)で漫才をやってみないか」と声がかかった。後に松竹芸能を作った新生プロダクションの勝忠男社長と父親が相談し、大阪に呼び戻したのだ。そこから本当の自分の人生を歩み出す。

 大阪に帰る汽車の中では、やってけるやろかと、考えましたね。私は、いつの間にか27歳になっていました。

 8月30日に大阪に戻って、その日にテーマソングを覚えました。みなさんご存じの「うちら陽気な~」っていうやつです。翌31日に、台本をわたされて、ストリップ劇場の幕あいに3人で舞台に立ちました。

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