「ヒロポン中毒」だった正司歌江が生まれ変わったとき (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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「ヒロポン中毒」だった正司歌江が生まれ変わったとき

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石原壮一郎週刊朝日
正司歌江(しょうじ・うたえ)さん/1929年、北海道生まれ。56年、次女の照枝、三女の花江とともに「かしまし娘」を結成。全国区の人気を得る。近年は女優として活躍中。「3人の関係は今も変わってません。会うとケンカばっかり。それが楽しいんやけどね」(撮影/加藤夏子)

正司歌江(しょうじ・うたえ)さん/1929年、北海道生まれ。56年、次女の照枝、三女の花江とともに「かしまし娘」を結成。全国区の人気を得る。近年は女優として活躍中。「3人の関係は今も変わってません。会うとケンカばっかり。それが楽しいんやけどね」(撮影/加藤夏子)

 もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しもやり残したことや忘れられない夢があるのではないでしょうか。今回は女優・芸人の正司歌江さんが「もう一つの自分史」を語ります。

*  *  *
 昭和31年の8月31日でした。初めて姉妹3人で舞台に上がったあの日、もしウケなかったら、私は今ごろ何をやってたかなあ。かしまし娘で人気者になることもなかったし、芸人はしてなかったでしょうね。

――旅回りの一座を率いる一家の長女として、北海道遠別町の芝居小屋で産声を上げた。歌越別という地名にちなんで「歌江」と名付けられる。

 初舞台は、数え年3歳のときでした。舞台で津軽じょんがら節を歌ったんです。あどけない子どもですからね。客席は大ウケやし、おひねりもたくさん飛んできます。

 ウケる気持ちよさと、お金が手に入るうれしさをそんな年で覚えてしまったんですから、なるべくして芸人になったのかもしれません。気が付いたら、照枝ちゃん(妹)と漫才してましたね。私が12、13歳のころには、天才少女漫才って言われて、けっこうな人気やったんです。

――天才少女が、漫才トリオで成功するまで幾多の紆余曲折があった。考えもしなかった「もう一つの自分史」を生きるようなものだった。

 戦争が終わって、また父親が一座を旗揚げしたんですけど、私が座員のお兄さんとちょっとあって、一緒にそこを飛び出してしまいました。

 それからのことは「苦労」という言葉では言い表せないぐらいです。死ぬ決心も何度もしました。

 お恥ずかしい話ですけど、10代のころから10年ぐらい、「ヒロポン中毒」やったんです。薬局で普通に買えた時代でした。からだはどんどん弱っていったし、気持ちもきっと荒んでいたと思います。

 舞台に上がったり、キャバレーの女給をやったりしていたんですが、紹介されてコンビを組んだ男が最悪でした。殴る蹴るは当たり前、仕事先と次々にトラブルを起こす。あちこちに不義理をして、芸人仲間からも白い目で見られて……。長野県の温泉に逃げて芸者をしていたんですが、連れ戻しに来て。


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