白洲次郎氏 (c)朝日新聞社
白洲次郎氏 (c)朝日新聞社

 ノーベル賞受賞決定の報で日本中が沸いたにもかかわらず、大学は崩壊の危機にある。安倍政権は産業力強化を掲げ、改革を断行。だが、国際競争力は低下する一方だ。ジャーナリストの徳本栄一郎氏は、世界で通用する人間の育成にはグローバル人材の元祖である白洲次郎氏の言葉がキーポイントになるという。

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 ここ数年「グローバル人材の育成」という言葉が目につくようになった。わが国の国際競争力の強化には世界で通用する人材が不可欠とし、文部科学省は「スーパーグローバル大学」など教育体制の整備支援を進めている。

 だが、そもそもグローバル人材とは何を意味するのか、世界で通用する人間はどうすれば育成できるか。それが曖昧なまま書店では単に語学力やコミュニケーション能力を指すようなマニュアル本が並ぶ。この根本的な問いに格好のヒントを与えるのは白洲次郎かもしれない。

 明治時代の1902年、兵庫県芦屋の実業家の家に生まれた白洲は、神戸一中卒業後、英国のケンブリッジ大学に留学した。帰国後は様々な職業に就いて近衛文麿首相のブレーンを務める。また戦後は吉田茂首相の側近として終戦連絡事務局で連合国軍総司令部(GHQ)との折衝を行った。新憲法制定やサンフランシスコ講和会議に立ち会い、通商産業省創設や電源開発に関わった政財界要人である。

 1985年に彼は生涯を閉じたが、近年「白洲ブーム」と呼ぶべき現象が起きてきた。日本人離れした長身と語学力、英国流ダンディズムを身につけてGHQと対等に渡り合ったとされた。

 これまで私は国内外で彼と交遊があった人々、機密解除された英米政府の白洲に関する記録を入手してきた。そこで浮かんだのは「従順ならざる唯一の日本人」とされる一方、「陰謀家」「吉田内閣宮廷派長官」など毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物像だった。

 だが白洲が当時では珍しい国際的感覚を持ち、それを占領期に遺憾なく発揮したのは事実だ。その人格や能力はいかにして生まれたか、英国の教育がどんな影響を与えたのか。

 何年か前、白洲が学んだケンブリッジ大学クレア・カレッジを訪れた事がある。大学関係者から当時の写真を見せてもらうと、ガウンを着た若い白洲が写っていた。1923年の学生名簿を見ると後に各分野で名を成した同級生も多かった。英国航空の前身の英国欧州航空の社長を務めたアンソニー・ホーレス・ミルワード、名門貴族で政界にも力があったロバート・セシル・ビング(後の七世ストラッフォード伯爵)などで、これら将来のリーダーと寝食を共にしながら学生生活を送っていた。

 面白いのはケンブリッジでの白洲の専攻が欧州中世史だった事だ。概して日本企業は歴史や文学は金儲けに直結しないとし、法学部や経済学部出身者を積極的に採用してきた。これについて戦後ある座談会で白洲はこう発言した。

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