「キノコ雲が太陽を遮っていたからでしょうね。目の前は暗かったですが、遠く向こうは青い空でした」(加地さん)

 電車から降りると家々が倒壊し、煤(すす)やら土埃(ほこり)、瓦が割れた粉じんなどが舞い上がり、視界が悪い。灰色や黒、茶色、暗い色が入り交じった混沌(こんとん)とした景色。

 運が良いことに無傷だった加地さん。ようやく見つけた防空壕(ごう)には、すでに10人ぐらいの人がいた。被害を免れたようで、ひどいけがの人はいなかった。だが、加地さんが壕で休んでいると、次々とけがを負った人たちが入ってきた。

 顔中真っ赤で血だらけの人、やけどで腕の皮膚がぶらりと垂れ下がっている人。みるみるうちに、総勢30人ほどになった。

「次から次に人が入ってくるので、壕の奥に押し込まれる。焦げたような、息が詰まるにおいがして息苦しくなってきたので、『このままでは死んでしまう』と壕を出て下宿を目指しました」(加地さん)

 午後4時ごろに、大浦の下宿に到着。浦上一帯を見下ろせる山の中腹にある壕に入り、夜を迎えた。壕の中はジメジメしていた。数時間が経ち、新鮮な空気を吸いたくなって外に出た加地さんが見たのは、浦上一帯を燃やし尽くす真っ赤な火だった。メラメラと燃える火は、夜空を真っ赤に染め上げていた。

「長崎は全滅だ。終わりだ。本当に、日本は勝てるのだろうか」

 軍国少年だった加地さんは、原爆の威力を目の前に立ち尽くした。

「私はこれまで、被爆の話を積極的にはしてきませんでした。ですが、被爆者の生き残りが少なくなってきた。戦後70年を節目に、多くの人に知ってほしいと思って、今回の体験談に応募しました。戦争はするものではありません。勝っても負けても同じです」(加地さん)

週刊朝日 2015年8月14日号より抜粋