マニラは魔都であって、街の女衒をして土地の親分になった日本の極道や、一流企業から派遣されて、現地妻とずぶずぶの仲になった怪男児もいる。

 世界の辺境を旅すると、アジアの売春窟をわたり歩いている60代の日本男子や、ケニアの女性を溺愛して日本の妻子と別れてしまったインディ・ジョーンズ系老人と会う。

 新種の植物の発見のためアマゾンの密林で暮らしている植物学者も変わり者で、日本人は世界中の辺境で活躍しているが、Tのような教員の仮面をかぶった性犯罪者も出てくるのだ。

 私の大学の同級生は、ほぼ半数が国語の教師となって、全国へ散った。私も教職課程をとったが、自分の性格が教員に向いていないことを悟り、出版社に就職したのだった。靖国神社へ出かけて満開の桜の下で焼きソバを食べながら「教員は無理だ」と気がついた。

 夜桜を見ているとヒタヒタと花見客が押しよせてきて、右へも左へも行けず、ただ押されるままに歩いていくよりほかはない。イデオロギーやヒューマニズムなんかどうでもよくなって自然の意思みたいなものにつき動かされた。

 教員になった同級生は五人に一人ぐらいが校長や副校長に就任した。人柄がいいタイプが校長になった。人柄が悪い私が教員になれば五年ともたなかったろう。

 私が通った高校は、中高一貫の男子校であったから、風変わりな教員が揃っていた。東大卒で共産党の数学教師は、授業中にチョークを生徒に投げつけ、コントロールがよく額に命中するから、よける技術を身につけた。宿酔で酒くさい匂いをぷんぷんさせてきた教員は、やかんの水をがぶがぶ飲み、いやな顔をすると、ひっぱたかれた。

『夕焼け学校』(集英社文庫、絶版)という小説で、酒飲みの国語教師(バリカン)を酔っ払って交通事故死させてしまったら、大分に赴任していた当人から「バカヤロー、まだ俺は死んでねえや」と電話があった。体育の教員と現代文の教員が、事務の美人職員をとりあって決闘し、体育の教員が勝った。

 いい話ばかりだなあ。男子校だから、生徒も教師も見栄がなかった。そのころ、T教員がいれば、体育館にアルバム410冊を展示し、全校生徒を集めて、「余はいかにして児童買春に手をそめたか。12000人との性交体験とその反省」と題して8時間の公開懺悔講演をやったと思われます。

週刊朝日 2015年5月1日号