貧しい漁師のもとに生まれ、学業も思うようにはできなかった村山富市さん(90)。しかし、運命に導かれるように、人生の転機となる人と出会い、あるいは周囲に担ぎ出され、村山さんの歩む道は、総理大臣へと続いていった。大学に入って1年もすると学徒勤労動員に駆り出され、その後、戦時中は出兵。昭和26(51)年、大分市議選に出馬したが落選。同30(55)年、大分市議に初当選。市議2期を経て同38(63)年、大分県議にトップで初当選。昭和47(72)年の衆議院選挙では大分1区でトップ当選した。
ほんと、国会議員としては社労を専門としてこれ以外は僕はやらないと決めとった。70歳の定年(社会党内の申し合わせ)まで社労一筋で頑張ろうというのが、僕の念願だった。党務や派閥には関心がなかった。当時は党内の右派と左派の対立がひどかったからね。分裂しては一緒になって、また分裂する。水と油みたいなもんで、自民党と社会党の仲よりもっと悪かった。近親憎悪じゃな(笑)。
社労だけと言っとったのが、委員長、そして総理なんてものになるんだから、わからんものじゃね。
これまでこうして話してきたことのほとんどは、実は首相就任直後の日米首脳会談のときに、クリントン大統領にも話したんじゃよ。
当時、アメリカの新聞で「日本では今度、ソーシャリストが総理になった。日米関係はどうなっていくのか」と危惧しているという話が耳に入っての。こりゃクリントンによく話さにゃいかんと、会談の最後にちょっと時間をくれと言って話したんじゃ。兵隊に行った話、学生運動や労働運動の話、民主主義と平和を信条として社会党に入党した話、戦争反対だということ。そして外交問題は国と国の約束だからね。政権交代で直ちに破棄なんてできない。でも、不都合があれば話し合って改善するのは当然だと。40分くらい話したかな。黙って聞いとったわ。時間を取らせてすみませんと謝ったら、時間の問題ではなく、いい話を聞かせてもらったと、安心したような顔をしていた。
人間ていうのは変なものでねえ。嫌だ嫌だと言いながら、推されて「しょうがねえ」となることもある。昭和26年に市議会選挙に担ぎ出されなかったら、選挙とは無縁の人生だったかもしれんね。
僕は自分の人生を振り返ってみて、「めぐり合わせ」の人生だと。めぐり合わせを広辞苑で引いてみると「自然にまわってくる運命」とある。だから自然に回ってくる運命に背中を押されてだな、やらされたようなもんだ。本当に不思議な人生よ。総理になったのもそうだ。衆議院の社民党は2人か……。せつないね。
※週刊朝日 2015年2月6日号より抜粋