堤幸彦つつみ・ゆきひこ 1955年、愛知県生まれ。88年、映画監督デビュー。95年、演出を務めたドラマ「金田一少年の事件簿」が高い評価を獲得。以降、手がけるドラマが次々とヒット、一躍人気演出家に。映画監督としても「20世紀少年」3部作(2008年、09年)など話題作を多数手がける。岡田惠和初戯曲作品の舞台「スタンド・バイ・ユー~家庭内再婚」は27日(火)まで東京・シアタークリエで上演後、大阪・金沢・静岡・名古屋・福岡で上演予定。映画「悼む人」は2月14日から全国公開予定(撮影/慎芝賢)
堤幸彦
つつみ・ゆきひこ 1955年、愛知県生まれ。88年、映画監督デビュー。95年、演出を務めたドラマ「金田一少年の事件簿」が高い評価を獲得。以降、手がけるドラマが次々とヒット、一躍人気演出家に。映画監督としても「20世紀少年」3部作(2008年、09年)など話題作を多数手がける。岡田惠和初戯曲作品の舞台「スタンド・バイ・ユー~家庭内再婚」は27日(火)まで東京・シアタークリエで上演後、大阪・金沢・静岡・名古屋・福岡で上演予定。映画「悼む人」は2月14日から全国公開予定(撮影/慎芝賢)

 映画監督、演出家として活躍中の堤幸彦さん。この世界に入ったきっかけは、テレビのADだったという。林真理子さんとの対談で明かした。

*  *  *
林:そもそも堤さんは、最初はテレビのADをされていたんですよね。

堤:そうです。給料3万円の。

林:公園で座ってたら新聞のチラシが飛んできたって、あれ、ほんとですか。

堤:よくご存じですね(笑)。大学中退して、名古屋の実家に戻って、また東京に戻って渋谷の宮下公園のベンチに座っていたんです。これからどうしようかって。そしたら新聞が転がってきて、その中に映像専門学校のチラシが見えて、なんとなく「テレビの仕事ならできるかな」と思ったんですね。それで映像学校の門をたたいたんです。

林:大学受験のとき、日芸(日本大学芸術学部)の映画学科に行こうとか思わなかったんですか。

堤:日芸、受けましたけど、落ちました。法政しか行く気がなかったんです。60年代・70年代、学生が力を持っていたころを引きずっていた唯一の大学で、その渦中にあって途中で行けなくなっちゃったんですけどね。それで映像の世界に行ったんですが、僕はそれまでテレビというものをほとんど見てないんです。映画も「ウッドストック」を見ただけ。

林:お芝居は?

堤:芝居に至っては大学のときに無言劇みたいなのを見たぐらいで。だから話が合わないんです(笑)。

林:映画の方たちって、しゃべりだすと「あれがこうでああで」ってすごいでしょう。

堤:唯一、ロックの話だけですね、合うのは。60年代・70年代のロックの黎明(れいめい)期、特に「はっぴいえんど」と松本隆さんが専門で。専門っていうのも変ですけど(笑)。

林:それにしても、制作会社のADって、安い給料で酷使されて、体をこわして田舎に帰るというのが大半のパターンでしょう?

堤:そうですね。2年やって午前中のワイド番組のディレクターになったんですけど、肝臓をこわして2カ月ぐらい入院しましたかね。2カ月も休むと、もうそのポストがないんです。でもそのころに、とんねるずを通じて秋元康さんと仲良くなって、一緒にいろいろやるようになったんです。

林:それで秋元さんたちと「SOLD−OUT」という会社をつくったんですね。

堤:そうです。1986年に。

林 あのころ秋元さん、変なこといっぱいやってて、「うんこや」というお店もつくってましたよね。

堤:青山にカフェバーを(笑)。

林:秋元さんからの案内状に、「『あそこ』とか『あの店』とか言わないで、はっきり『うんこや』と店名を言うこと」って(笑)。

堤:メニューに「たっぷりうんこして帰ってください」とか(笑)。箸置きがうんこの形をしていたり、箸がキープできるというちょっとおしゃれな店でしたね。

林:私、行ったことあったかな?

堤:2、3回お越しになっているはずです。

週刊朝日 2015年1月30日号より抜粋