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「話題の新刊」に関する記事一覧

私の方丈記
私の方丈記 引き揚げ者として貧しさに追いかけられてきたという作家が、親しみを感じる「方丈記」の現代語訳と、自身の体験を重ねたエッセイを綴った。生き残り方のこと、貧を生きるということ、居住空間や友だちについてなど、題目を挙げて考察する。 「川は、いつもおなじ姿で流れている」と訳は始まる。平明で読みやすい。小見出しを追うだけでも大火や飢饉や地震時の街の様子から鴨長明の庵暮らしのことへと向かうおおよその話の筋がわかる。だが、エッセイには「清貧という言葉があるが、ぼくにはその意味がわからない」と書く。貧乏で孤立したことがあった。原作者のように邸宅住まいを経て方丈の間に至ったわけではない。1畳の間に下宿した兄は、「方丈記なんておまえ、大広間だあ」と言った。家賃の安さを第一に、窓がなかったり、ふすま1枚を隔てて未婚の娘が寝ていたりする部屋を見つけて友人に驚かれたこともある。だからこそ、小説の中で電気洗濯機を1台登場させるにもていねいに筆を費やした。初めから物が存在する現代の光景を寂しく思う姿がある。
脳の中の時間旅行
脳の中の時間旅行 同じ1時間でも、遊んでいるときはあっという間、ところが病気で寝込んでいるとおそろしく長い。脳が感じる時間がこんなに伸び縮みするのはなぜだろう。謎に満ちた時間知覚の最新研究をわかりやすく紹介している。  脳内の時間を歪めるのは恐怖や退屈といった感情、うつ病など心の病。もう一つの原因が記憶だ。通常、一定の時間枠には一定量の記憶が入っているが、思春期や旅行時など、新しい経験が多い時期の記憶は膨大になる。あとで思い起こす時、過剰な記憶量に合わせて時間が引き伸ばされるのだという。なるほど、年を取ると時間が速くなる理由がこれか。  面白いことに時間を空間的に、つまり形でとらえる人々がいる。ドミノ牌の列、円、触手のついた楕円。時間を形に描く能力が、実は脳の中で過去や未来に行き来することを助けているのだが、未来を具体的に想像できる人ほど目標を実現し、前向きな人生を送る傾向がある。そして未来を想像することは、過去の記憶を使うことで初めてできるという。時間と空間、記憶の境界はあいまいで、互いに混じりあうものらしい。驚愕。
無罪請負人
無罪請負人 本書はあまたの刑事弁護に関わってきた弁護士が、自身の活動を基盤に「時代を映す鏡」としての刑事事件を解説したものだ。 「刑事」裁判は、犯罪を認定し具体的な刑罰を科すことを目的とし、私人の権利関係について争う「民事」裁判とは区別される。裁判制度自体、一般にピンと来るものではないかもしれない。しかし、これまで著者は厚生労働省官僚の郵便不正事件やロス疑惑など、普通の暮らしがある日一変する冤罪事件に多く関わってきた。「無罪請負人」はマスコミがそんな著者につけた呼び名でもある。それゆえ本書を支えるのは、刑事事件が自分たちの生活と「無縁なものではない」という問題意識だ。  世間の注目を集めた事件の回想は弁護人しか知り得ない話が多く、貴重な資料といえる。しかし、最も注目すべきは事件に関わる根本的姿勢にある。著者は「弁護士は、あらゆることについて予断や偏見を持つべきではない」と語る。むしろ大事にしているのは「依頼人の話をよく聞くこと」という。他業種の人間でも、その言葉に学ぶところは大きい。
僕の場所
僕の場所 世界を舞台に活躍する建築家が自身の源にある哲学を探った。建てる人、使う人、周りの人と、さまざまな人の身になって考える建築設計は、いつも自分が粉砕される作業を伴う。その思考と行動形式を、「大倉山」「田園調布」といった場所を手掛かりに書く。  人の履いている靴が気になると著者はいう。その人がどう世界とつながっているか、どう自然と接続しているかがわかるからだ。その意味で靴と建築は似ている。横浜の大倉山にあった生家は農家の庭先を借りており、少年のころは晴れた日にも素足で長靴を履き、土の感触を感じた。コンクリートのル・コルビュジエ、鉄の建築のミース・ファン・デル・ローエが二大巨匠とされた学生時代に影響を受けたのは、日本の木造建築の美しさを説く内田祥哉だった。風や光や匂いが感じられる、隙間の多い建築へと向かう原点がここにある。  デザインの基本は拒否の姿勢だという。現状を肯定する「いいね」は新しいものを生み出さない。何がいいのかわからなくても、「違う」と言い続けることが創造につながるのだ。
ヅカメン! お父ちゃんたちの宝塚
ヅカメン! お父ちゃんたちの宝塚 タカラヅカといえば、金髪リーゼントにつけまつ毛バッサーの凛々しい男役というアレだ。そんなものにまるで興味がなかったのに、突然タカラジェンヌのリストラ役を申し渡された本社の社員、娘が宝塚に入りたいと言い出して慌てふためく父親。女ばかりの劇団を陰から支える男たち、“ヅカメン”の知られざる奮闘を描く六つの連作短編集である。 「月の番人」の主人公は阪急電車で鉄道ひとすじだった元駅長。退職後、「お父ちゃん」とよばれる生徒監(タカラジェンヌの世話役)を頼まれる。渋々始めたものの、生徒の芸名・本名・ニックネームとメイク顔・素顔を全部一致させるのに一苦労。ため息をつけば「幸せの妖精が死ぬからついちゃダメ」とたしなめられる。幸せの妖精って何なんだ!と絶句。 「女だけの劇団なんて」と敬遠していた男たちだが、清く正しく美しく、常に上を目指す彼女らの熱意とプロ根性を目の当たりにして、宝塚への愛と仕事への情熱に目覚め始める。  歌劇団の仕組みや挨拶やらなんやらの宝塚独特のルールなど、舞台の外の宝塚世界もつぶさに描かれ、まことに興味深い。
誰も書かなかった自民党
誰も書かなかった自民党 「総理の登竜門『青年局』の研究」という副題の通り、自民党青年局の歴代トップ45人には、のちに総理となる竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、麻生太郎、安倍晋三の各氏をはじめ、政界のリーダーたちの名前が並ぶ。1955年の保守合同による結党当初から存在する青年局とは、どんな組織で、どんな活動をしているのか。政界取材に携わってきたフリーライターが、その実像に迫った。  原則45歳以下の党員で組織される青年局。地味なイメージの組織が話題を集めるようになったのは、小泉進次郎氏が2011年10月に局長になってからだ。著者は12年11月から約1年間、進次郎氏の遊説に密着し、全国で十数万人を数えるこの組織の力を目の当たりにする。歴代青年局長の証言も集め、組織の歴史をひもといていく。  そこから浮かび上がってきたのは、この組織こそ、自民党のしぶとさとしたたかさの源泉の一つであり、バランス感覚の培養装置であり、自民党の縮図である実態だ。安倍氏の青年局長時代の秘話からは、総理就任後の行動原理も読み取れて興味深い。

この人と一緒に考える

秘宝館という文化装置
秘宝館という文化装置 温泉街の片隅にたたずむ秘宝館の放つ妖しさはどこからくるものなのか。有名人の等身大の蝋人形や男性器を神格化したオブジェが展示される一方、医学模型が並ぶ。時には、動物の交尾の実演ショーも開催される。本書では社会の変化を踏まえながら、性をテーマにした観光装置である秘宝館の盛衰に迫る。  秘宝館の歴史は意外にも新しい。最も古い「元祖国際秘宝館伊勢館」でさえ誕生は70年代。バスによる団体旅行の普及を見込んでつくられ、その後、温泉地という特定空間に限られた時代に発生したという。  興味深いのは性に関する遊興空間でありながらも、医学模型や道祖神などの展示を免罪符にして観光装置としての存在を正当化させた点。道徳性、宗教性が卑猥さを中和し、猥雑で不思議な空間を醸成したのである。  ただ、車の保有台数が増えるにつれバス団体旅行が下火になり入場者数は減少。かつて全国で20を超えたが現在は熱海と鬼怒川の2カ所を残すだけ。世界にも例をみないワンダーランドがこのまま消えてしまうのは惜しい。
荒野の古本屋
荒野の古本屋 東京・茅場町の古びたビルの一室にある、写真集と美術書が専門の古本屋、森岡書店。その主が、モラトリアムを経て神保町で修業し、独立して店を軌道に乗せるまでを綴った。  大学卒業後、昭和初期の建築に惚れ込んで、電気の差し込み口が壊れてテレビも冷蔵庫もない部屋に暮らした。週3回のアルバイトで糊口をしのぎ、住んでいる建物が高級アパートだった戦前の生活を追体験するため、当時の新聞をコピーしてきて読んだりもした。そんな若者に、神保町の大人はあたたかい。入社した一誠堂で、「わからないことは、わからないと謙虚にいえる姿勢が、より大切。古今東西の本のうち、我々が把握できるのは一%もない」と専務に諭された。「いいか、おまえ、カネなんかじゃないぞ、まじめさ、素直さ、朗らかさ、こういうのが大切だ。受験勉強では身につかないし、いくらカネをつんでも買えない」とは先輩店主の言葉だ。  独立を決めた後の行動は必死さが伝わり、人間的な魅力にあふれる。かつての万引き未遂犯が店を訪ねて来て、本を買いたいと切り出す場面は微笑ましい。
宇宙飛行士の仕事力
宇宙飛行士の仕事力 「コミュニケーション能力」とは、一体どのような能力なのだろうか。その疑問に、宇宙飛行士の仕事に焦点を当てた本書が明確に答えてくれる。  常に危険と隣り合わせの「究極の職場」で働く宇宙飛行士にとって「コミュニケーション能力」は不可欠だ。「自分の言いたいことを正確に伝え、相手の言うことを正確に理解すること」を基本に、信頼を得るための自己開示や、ストレスを笑いに変えるユーモアの重要性を著者は指摘する。また、宇宙飛行士には知力、体力、リーダーシップ、フォロワーシップ、状況判断力なども求められる。これらの能力がどのように選抜試験で見極められ、訓練で伸ばされ、宇宙で発揮されるのか、という過程が綿密な取材によって明らかにされる。  著者は20年以上、宇宙関連の取材を続ける“宇宙ライター”。日本人初の船長となった若田光一さんはじめ、国内外の宇宙飛行士たちの素顔も興味深い。「スーパーマン」と思われがちだが、努力の人であることが分かる。彼らの「仕事力」から学べることは多い。
尼のような子
尼のような子 著者の名は「少年」なのに「アヤ」。プロフィールには「平成元年、消費税とともに生まれる。(中略)どこかに向かって走っている」という、プロフィールと呼ぶにはあまりにも大ざっぱな言葉が並ぶのみ。なんだかつかみ所がない人物のように思えるが、そんな印象とは裏腹に、彼の発する言葉は読者のこころを鷲づかみにする。この時代を生きることの不安と喜び。愛することの希望と絶望。それらがない交ぜになって、紙上に叩きつけられてゆく。  本書には、もともと日記ブログを書籍化するはずが、ほぼ全編書き下ろすことになったという経緯がある。新しく書かれた文章からは、日記ともコラムとも違う、私小説の匂いがする。アイドルにハマり、突然の体調不良に襲われ、露出狂に遭遇し、ネットオークションで日銭を稼ぐニートになり……それらは極めて個人的な出来事である。しかし「私だけの試練、私だけのカルマ、私だけの戦闘を越えて」で終わる本書は、「私」を超えた先にある「私たち」の試練、カルマ、戦闘へと接続し、共闘を促しているように思えてならない。
ドーナツを穴だけ残して食べる方法
ドーナツを穴だけ残して食べる方法 「ドーナツを穴だけ残して食べるには?」ってバカ言っちゃって、ドーナツ食べたら穴はなくなるでしょ。と思うだろうが、世の中にはとんでもなくいろんな答えを出す人たちがいる。本書はこのケッタイな問いをテーマに、大阪大学の学生たちが企画・編集、販売まで行い、本文は大阪大学の先生たちがそれぞれの専門分野から考察、執筆したものだ。  この問題はもともとネットで流行った定番ネタ。冒頭の経営学者はドーナツの穴談義がどのように発生し定着したのか、その進化の過程をたどっている。工学者は穴を形成する縁を残して機械で削るというがっぷり四ツの視点で、歴史学者は「穴がある」というそもそもの前提を疑い、法学者はドーナツの穴問題のパラドクスと法解釈との密接な関係を考える。  ドーナツ一つで人間世界のあらゆる側面が丸裸にされることにびっくり。執筆を依頼された当初はおそらく「バカ言っちゃって」派だった先生方が、結構ハマってあれこれ考えちゃったそのワクワク感と、企画がどストライクに入った学生たちのしてやったり感が本書をいっそう楽しくしている。
ここが一番面白い!生命と宇宙の話
ここが一番面白い!生命と宇宙の話 生命はどのように誕生したのか。その謎を解くカギは意外にも宇宙にあるという。極地や火山、深海など、極限の地に住む生き物を研究する辺境生物学者が、生命の起源と宇宙との深い結びつきについて興味深く語る。  生命が太古の海で発生したとする定説に対し、地球外生命が地球に飛来したという宇宙起源説が、今世紀に入ってにわかに現実味を帯びている。別の天体で発生した微生物や有機物を内部に閉じ込めた隕石や彗星の破片が地球に落下、それが生命のタネになったというのだ。最新の調査によれば火星は過去に生命が生息可能な環境があり、土星の衛星エンケラドスも生命発生に必要な条件がそろっている。南極のバクテリアや深海の熱水噴出孔のチューブワームなど、過酷な環境に生きる生物がいることを考えると、最初の生命が別の星で生まれ地球にきた可能性は十分あると述べる。 「地球は“水の惑星”ではない」という衝撃の一文もある。水に覆われた水惑星では生物の知能は発達しえない、とも。なぜなのか。宇宙から見る地球は驚き、また驚き。まだまだ未知なるものを秘めている。

特集special feature

    半自叙伝
    半自叙伝 今年で作家歴47年目を迎えた著者の生い立ちから今までの半生と作品にまつわるエピソードを綴ったエッセイ集。幼少時には幾度も死の危機を経験し、「いきなり露呈した非現実」を何度も目撃してきた。  7歳で空襲により生家を焼かれ、高度成長期の区画整理により長年住んだ土地を変えられてしまったと語る著者の記憶は、同年代の人であればたいてい共有されているはずだという。何度か大病を患って死に瀕していた時は、偶然にも「世の中の変動やら異変やらと、とかく時期を前後」した。そのため、本書には朝鮮戦争、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、9・11テロ、リーマンショック、東日本大震災など、読者と共有し得る記憶が随所に織り交ぜられている。  読み進めていくうちに、古井自ら「おかしな表題」と評する『半自叙伝』には、ここに綴られている記憶の「半分」は読み手のものだ、という意味が込められているように思えた。本書は、著者と読者との記憶の間に「そのつどつかのまながら生じる、共鳴の感触」を感じさせている。
    ゴミ情報の海から宝石を見つけ出す
    ゴミ情報の海から宝石を見つけ出す ネット世代を代表するジャーナリストが、ツイッターやフェイスブックを中心に情報が氾濫する社会のなかで、よりよいメディアとの付き合い方を解説した1冊だ。六つの章に分かれ、「成熟した情報の受け手になるために」「ツイッターのデマを検証する方法」「いい文章を書くための秘訣」などの個別質問に著者が答えるQ&A形式を取っている。  インターネットが活動拠点と見られがちな著者だが、「ネット礼賛」の立場かというと意外とそうでもない。例えば「マスメディアとネットメディアはどちらが信頼できるか」という質問には、現在のところ「時事問題についてまともな報道ができるネットメディアはほとんどありません」ときっぱり断言。他にも「新しい知識はどこから得るべきか」という質問に対しては、本、ネット、人づてという三つの習得経路を挙げた上で「とにかくリアルで人と会って話を聞く」ことを重視すると回答。率直だがその分、答えに信頼が持てる。  コンパクトな構成でありながら、情報との関わりを網羅的に考えられるのが大きな魅力だ。
    ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか?
    ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか? 留学研究所で40年間、米大学への進路指導に携わる著者が、ハーバード大学の学士課程における入学審査の独自性や、アメリカ社会での位置づけを、例を挙げて説きあかす。  世界中から優秀な学生が集まるハーバード大学だが、寮費や食費も含めた学費は年間約600万円かかる。そのため学生の7割は奨学金を得ている。討論中心の授業の質を上げるためには刺激に満ちた意見を述べる人材が必要で、それには移民や難民も含めた多様な背景をもつ学生の獲得が必須だ。秘密のベールに包まれた入学審査にせまる。  正直、読むほどに何故ハーバード大学を目指すのかがわからなくなる。入学すれば何ものにも代えがたい学生生活を送れるだろうが、ハーバードの学士号をとっても、大学院へ優先的に入れるわけではない。しかも博士号を取得しても、大学が多様性を重んじるため母校には残れない決まりがある。一方、一般のアメリカ人にとっては、お金のかかる大学という認識らしい。国土が広大で一極集中でないアメリカでは、アメリカンドリーム=ハーバードという考えはないという。
    二軍男子が恋バナはじめました。
    二軍男子が恋バナはじめました。 著者の桃山商事は、清田代表、森田専務、佐藤広報の3人からなる恋バナ収集ユニット。恋愛をとりまく厳しい現実と向き合い、常に危機感を持って努力し続ける二軍選手のメンタリティを持った「二軍男子」を自称している。彼らがこれまでに恋バナ=恋の話を聞いた人の数はおよそ500人。そんな彼らが、鼎談形式で恋愛、結婚、セックスについて語った本書は「恋バナは女性の専売特許」という固定観念を破壊するものだ。  彼らが大量の恋バナに触れているからといって、本書がスペシャリストによるハウツーものだと思ったら大間違いである。収集した恋バナも、彼ら自身の恋バナも、聞けば聞くほど十人十色で、だからこそ面白い。「個人差を無視して『女』なんてひとくくりにできるわけないし、コンディションもテンションもそのときによって違うんだから、普遍的なテクニックなんてないんじゃないかなあ」という言葉が示すように、本書はアンチ恋愛ハウツー本であると同時に、著者と読者が一緒になって恋愛という複雑怪奇な世界に立ち向かっていく「冒険の書」なのだ。
    謝るなら、いつでもおいで
    謝るなら、いつでもおいで 今から10年前、長崎県佐世保市で小6の女児が同級生を殺害する事件が起こった。11歳による殺人であり、かつ被害者の父親が毎日新聞社の支局長であったことから、事件は当時メディアを大いに賑わせた。  本書は当時、被害者の父の部下であった新聞記者が、取材当時から事件関係者の現在までをまとめたルポルタージュだ。注目すべきは、書き手が「取材者」かつ「被害者の隣人」という立場の二重性にある。前者の目線からは、被害者やその同級生たちの様子をはじめ、事件当時の状況が克明に描きだされる。他方、事件を記事にすることは、家族同様に親しくしていた遺族らを「傷つけるのではないか」という葛藤にも直結する。二つの立場に引き裂かれる書き手の姿は、報道に関わる者のありかたについて読者に考えさせずにおかない。  本書後半では被害者の父、兄、加害者の父という三者の目線から事件が回想される。事件は終わっても「遺族にとってはずっと現在進行形」と語る被害者の父の言葉は重い。近しい立場から10年越しで引き出された言葉の厚みが詰め込まれている。
    日本の祭りを追う
    日本の祭りを追う 日本では365日、どこかで祭りがあるという。カメラマンの著者は、北海道から沖縄まで全国各地をめぐり、およそ百の祭りを写真に収め、起源や撮影メモなど文章を添えた。紹介されるのは、伝承文化による民俗芸能ばかり。観光的な派手さはないが、勇壮で優美な祭りを足掛け9年、山村の集落まで訪ね歩いた。  表紙カバーにあるのは、和歌山県日高郡日高川町・丹生神社の笑い祭だ。これは、神輿に担がれ、道化のような化粧をした氏子たちが「笑え、笑え」と参詣人に強要する奇祭である。むかし女性の神様が、出雲での神々の集いに寝過ごしてふさぎこんでしまったのを慰めようとして始まった。笑いで邪気を祓う意味合いもある。祭りの興奮が本書に渦巻く。  青森県の下北の能舞や、岩手県花巻市の早池峰神楽、兵庫県姫路市の灘のけんか祭りから、長崎県五島市の、祭りの由来も語源も不明の奇祭中の奇祭「ヘトマト」まで。人々を共同体たらしめる祭りの多彩さに圧倒される。頁が180度開く、糸かがり製本もなつかしさを醸し出している。

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