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「話題の新刊」に関する記事一覧

父 吉田健一
父 吉田健一 本書は、著者の吉田暁子が父吉田健一をめぐって書き綴ったエッセイ集だ。大の酒好きとして有名であり、酒に関するエッセイも数々残した文筆家吉田健一。「この本が、父のため、父の作品のため」になれば、と書く著者は、時には家での思い出を語り、時には残された作品について語りながら、新しい吉田健一像を描き上げている。  著者は、父の一生は厳しく自分を律し、決まったことを日々繰り返す「正確無比」なものだったと言い切る。酒飲みであっても、大好きな酒で羽目を外す「その日、その時期」さえ決めていた。子供に対して口を利くことはめったになかったが、「冷たい」父親とも思わず、むしろ家族のために節制する誠実な人柄を著者は「大変好き」だと言う。  自分の著作を署名入りで献呈してくれた時に、「お暁」ではなく「暁子様」と書いてくれたことを見て、やっと一人前と認められたと語る著者の語り口からは、父をこよなく愛する娘の嬉しそうな顔が浮かび上がる。飾らない言葉で書かれた著者のまっすぐな気持ちに心を惹かれる一冊だ。
殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件
殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件 群馬県太田市と栃木県足利市にまたがる半径10キロのなかで、17年の間に5人の少女が誘拐または殺害された。著者は同一犯による連続事件を疑い、事件のひとつである足利事件を調べ始める。本書は、いったんは解決済みとされた事件の真実を、ひとりの報道記者が明らかにしていくノンフィクションだ。  2009年、著者の調査報道は、冤罪で逮捕されていた菅家利和さんを17年半ぶりの釈放に導く。さらに「ルパン」似の真犯人とおぼしき人物も突きとめる。だが事件は時効を迎え、警察は動かず、犯人は逮捕されずにいる。  誤認逮捕の証拠には、DNA型鑑定が用いられた。冤罪を示すためには、当時の鑑定能力が絶対でないことを証明しなければならない。弁護側と検察側推薦の法医学者がそれぞれ最新の方法で再度調べるも、いずれも一致しない。DNA型鑑定とは一体なんなのか?著者は、DNA型鑑定を証拠に死刑が執行された「飯塚事件」も冤罪の可能性があったと示唆する。報道とは、国家や世間に届かない小さな声を聞き、伝えることだと著者は信じている。
オレがマリオ
オレがマリオ <「オレが今マリオなんだよ」島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ>  沖縄・石垣島に移住した著者と息子の、瑞々しい驚きや発見が歌われた第五歌集。震災を挟み足かけ9年、341首が収録されている。  本書は二部構成であり、まず震災から現在までの歌が登場する。仙台市の自宅から西へ行く途中でもらった「ゆでたまご」を忘れないと思い、「島に来て」戸惑うなかで、いつの間にか子は「オレがマリオ」と奔放に駆けまわっている。やがて食卓には島の果物や魚が並び、歌には島の言葉が並ぶようになる。春は海にモズクを探し、夏はスコールがストローのようにざくざく落ちてくる、といった島の四季が生き生きと描かれ、第二部の震災以前の日常との対比が鮮やかだ。 「私は何かを失ったのではない、大切な場所を一つ増やしたのだ」と著者は言う。失ったことへの怒りや悲しみもあるだろう。しかし、それ以上に、大切なものに対する温かな眼差しを感じる。愛に溢れた一冊である。
なぜ競馬学校には「茶道教室」があるのか
なぜ競馬学校には「茶道教室」があるのか 日本中央競馬会(JRA)の騎手を育成する競馬学校が開校したのは1982年。現在でも第一線で活躍する武豊、横山典弘、三浦皇成など一流騎手が輩出してきた。馬の世話や騎乗訓練が授業の大半を占めるが、卒業生の多くが「もう一度受けたい」と口をそろえる意外な授業がある。茶道だ。  開校以来、騎手候補生に茶道を教え続けた著者は「騎手と茶道には共通する点が少なくない」と語る。無駄な動きを省き自然体が求められる姿勢、感性の重要性……。実際、一流騎手ほど茶道の素養も持ち合わせているケースが多いという。  とはいえ、これは結果論に過ぎない。競馬学校の求人が舞い込んできた時に、学校側から著者に求められたのは「お菓子の食べ方を教えること」。減量に苦しむ生徒たちに公然とお菓子を食べさせてあげる場を設けたかったのが学校側の狙いで、茶道を教えることは求められていなかったのだ。それから約30年。一見、関係性が見つからない競馬と茶道が結びつき、騎手たちの人生観に大きな影響を及ぼしていることが興味深い。
ひとりブタ 談志と生きた二十五年
ひとりブタ 談志と生きた二十五年 立川談志に入門し、20年の修業期間を経て真打になった落語家が、師匠との蜜月時代から葛藤と確執を経て和解し、談志落語が体に沁み込むまでの月日を語りつくした。  入門したてのころは師匠と銭湯に行き、前座仲間と3人がかりで背中を流したり、玄関の床に坐らされ、師匠が野菜を炒める音に負けないよう稽古させられたりした。だが、次第に疑問を覚える。あるときは月々の上納金を滞納した罰として、未納分の倍の金額をまとめて払わされた。二ツ目昇進の際には、昇進料の外に50万円を担保として預けさせられたが、未だに返してもらえずにいる。借金で工面したが、真打への昇進をかけた公演では大勢のファンの面前で2度も駄目出しをされ、もう客の前ではやるなと言われた。何度も師匠と刺し違えようかと思ったという。  師匠の人間的な弱さを、清濁併せ持つ世の中の常として、あるいは人間の本質として呑みこみ、すべてを芸に昇華させる姿を、著者は兄弟子・志の輔に見る。とことん悩み、人間の業の肯定という談志の教えに向き合った半生には、落語の神髄がある。
自殺
自殺 2013年の自殺者は2万7195人(警察庁調べ)。2年連続で3万人を下回ったところで、東日本大震災の犠牲者より多くの人が自ら死を選んでいることに変わりはない。  著者は「写真時代」「パチンコ必勝ガイド」など話題の雑誌を創刊した編集者。前半では半生が綴られる。幼少期に母が若い男とダイナマイト心中し、心に暗い影を落とす。やがて、逆にそのことが、表現者として選ばれたことだと思えるようになり、考え方が一変。  しかし、その後に続く、不倫や離婚、ギャンブル狂い、約3億円にまで膨れた借金、うつ病やがん発覚などといった修羅場も飄々と綴る。  自殺未遂者や、青木ケ原樹海を巡回して遺体を発見する男性などのインタビューも盛り込まれ、目を背けがちな「自殺」に対峙することになる。それが苦痛ではないのは、どこまでも優しい著者の眼差しによるものだ。自殺を考えるのは、真面目で優しい人だと言う。「笑える自殺の本にしたい」という著者の思いは、「生きてて良かったということはいっぱいあるんだから」という、誰よりも説得力のある一言に凝縮されている。

この人と一緒に考える

カテリーナの旅支度 イタリア二十の追想
カテリーナの旅支度 イタリア二十の追想 30年にわたりイタリアに暮らすジャーナリストが綴る出あいの記。2012、13年に文芸誌などに発表の20作を編む。古代、中世、近代が現在と共生する悠久の歴史的風土はそれだけで絵になるが、さすがに取材する人の筆は単なるスケッチにとどまらない。分析と批評のフィルターを通してこの国を洗う時代の波頭をとらえて鋭い。  表題作は、単身赴任も辞さずに会社組織の階段をのぼりつめ財を成したカテリーナの、夫にも一人娘にも離反された老後の孤独を描く。ここに大家族を仕切る骨太マンマの姿はない。南米からやってきて清掃会社の派遣労働者として働く女性デルマが直面する差別と偏見、排除(「硬くて冷たい椅子」)。明るく鷹揚なイタリア気質の定番イメージが覆る。在留資格の更新を重ねてきた著者の、異邦人の哀切に寄せる深い共感。  だがなおかつ本書に横溢するものは、やはりイタリアへの愛である。ミラノを中心に転居を繰り返し都市、農山漁村に住み人と交わりワインをハムをチーズを、会話を堪能する著者の“わがイタリア”を知る。
やくざ・右翼取材事始め
やくざ・右翼取材事始め 好奇心から思わず手を伸ばしたくなるタイトルだ。やくざ・右翼取材の第一人者といえるジャーナリストが、約半世紀にわたる自らの仕事を回顧した一冊である。  著者は1960年代より、戦前右翼の反体制機運や、窮民側に立ったやくざの義侠精神に惹かれ取材を開始した。右翼・やくざを通して社会構造の深層を描くことに重点を置いたと著者が語る通り、当時の国内状況や、彼らの生き様が克明に描写される。たとえばマスコミにほとんど顔を見せなかった三浦義一。戦後GHQにも強力な人脈をもった右翼の大物だが、敗戦直後、周囲が次々と自決していく。陸相・阿南惟幾、国家主義者・影山庄平……。戦後は岸信介や佐藤栄作とも太いパイプをもっていたという。  とりわけ強調されるのは「差別」の問題だ。著者は取材開始当初、歴史学者・奈良本辰也から「差別がやくざを生む」と教わったという。在日韓国・朝鮮人や被差別部落出身者の中には、貧困環境ゆえやくざになる人もいた。「もう一つの戦後史」を考える一つの手がかりを提供している。
心に湯気をたてて
心に湯気をたてて 福島に生まれ、福島に生きる詩人が10年にわたって書き継いだ150篇のエッセイ集。家族や友人、町の人々のことに加え、光と風の輝く自然豊かな故郷の風景が織り交ざる。  冒頭の数篇には、東日本大震災以降の、清々しい風土の喪失が綴られる。「時には田舎の物足りなさを感じながら、しかし何かを引き換えにしたとしても、水と風の自然を私たちは選んできた」。そして昔ながらの風景との生理的な交歓を静かに語る。「太陽っつうのはな、きのこの化け物なんだぞ。(中略)山さ行ってみろ。いっぱい、きのこ、転がってっから」と昔、近所のおじさんから教わったこと。外の雲がそよと動くのを見て、亡くなった祖母が話しかけてきたように思ったこと。和合家の昔からの習わしとして、親戚12軒に年始回りの挨拶をするときの心得なども、過去の平和の象徴のように紹介される。  震災直後に推敲なしでほとばしるように書かれた『詩の礫』とは打って変わり、選び抜かれた言葉は穏やかさに満ちている。あたりまえの生活にしずくのように落ちる光を感じ、読了後の世界は幸せを増す。
心の力
心の力 私はまだ、この日常に慣れきっていない──。東日本大震災から3年、時代はどこに突入するのか。未来を生き抜く「心の力」が今こそ必要ではないか。ミリオンセラー『悩む力』と長編小説『心』の著者が、夏目漱石『こころ』とトーマス・マンの『魔の山』を題材に心の実質を太くする生き方を考え抜く。  両書の主人公はいずれも平凡、凡庸。ただし、「偉大なる平凡」なのである。凡庸が偉大なのは、幅のある選択肢の中から最適なものを選択でき、人の意見をたくさん聞きながらも「染まらない、洗脳されない」から。そのように、「自分自身がいいと思う道を進んで、それがダメだったらいくらでも図太く方向転換できる」ことこそ、究極の心の在り方ではないかと著者は投げかける。  代替案がないから生きづらくなる。いまの生き方が苦しいならリセットすればいい。心は自分なりの自己理解と密接に結びつく。だから、「ある」ともいえない未来をあれこれと予測するより、確実に「ある」過去を力に変えていく。著者の言葉から、「心の力」の正体をつかんで欲しい。
「おネエことば」論
「おネエことば」論 独特の言い回しやトゲのある発言。「おネエ」と呼ばれる人々が話しているのをテレビ番組で毎日のように見かけるようになったのはいつからだろうか。本書は「おネエ」たちの喋りがどこから来て、どこに向かうのかを考察した1冊だ。 「おネエことば」のルーツは1940年代後半の男娼にまで遡るが、90年代まではゲイの人々の中で独自のものとしてひっそりと存在していたという。一般的に広まったのは2000年代以降。ゲイの市民権獲得の運動の盛り上がりなどとは直接的な関係はなく、テレビ番組の内容の変化やテロップを多用する編集方法の登場が意図せずに「おネエ」たちに活躍する機会を与えることになる。同時にアイデンティティとしての言語様式だった「おネエことば」が商品化することで、コメディー性を強化するための言語様式に変容していくとの著者の指摘は興味深い。  著者はオーストラリア出身。外国人の視点から日本語を見つめることで、我々が気付かなかった日本語の持つ柔軟さを浮き彫りにしている。
そして最後にヒトが残った
そして最後にヒトが残った 現生人類、つまりヒトは約50万年前にネアンデルタール人と分岐、彼らより優れた遺伝子を持ち、知性や適応力で劣るネアンデルタール人を滅ぼしたとされている。はたしてそうか。ネアンデルタール人研究の専門家が初期人類から現生人類に及ぶ人類の存亡を追いながら、ヒトだけが生き残った理由を探る。  人類はアフリカからユーラシア、アジアへと世界中に住処を広げていったが、それは気候変動に伴う環境の激変のせいだったという。寒冷化で森林は縮小し、ステップや草原が増加。温暖化ではその逆が起こった。そのとき運悪く厳しい環境から動けず取り残された集団は消滅し、うまくよい土地に移動できた集団は長く種を維持している。明暗を分けたのは能力の優劣ではなく、彼らが生き残れる時代・環境にたまたまいたかどうかだと結論。人類の進化をヒトの能力の優位性、特殊性からしか見ない従来の人類学を批判している。  最新の遺伝子研究ではネアンデルタール人とヒトが交雑していたことが判明した。私たちの中に別の人類が一部なりと生き続けていることに驚かずにいられない。

特集special feature

    変身
    変身 本書は元NHKアナウンサーである著者が、原発に関するドキュメンタリー映画を制作した過程を綴ったノンフィクションだ。  2011年3月の震災以降、ツイッターを通じて積極的に情報発信を行ってきた著者。2012年、スリーマイルアイランドを訪問した際、調査機関の担当者から1979年のスリーマイル島原発事故について「みんな私たちをもう気にも留めていない」と告げられた。著者はその言葉をきっかけに「スリーマイルの現在は福島の未来」との思いから映画制作を志し、震災直後福島県で生じた原発事故当時の情報公開過程を多角的に検証してゆく。  映像の編集方針を語った箇所は、書籍だからこそ得られる貴重な知見となっている。例えば、映画のなかでは東電が震災当時行ったテレビ会議の映像が使われた。著者は理由として同映像は市民ならば誰でもアクセスできると断った上で、個々人が自分の目で公開された映像・文書資料にあたる必要性を伝えたかったと語る。「反原発」というカテゴリーを超え、新たな時代における「情報」との付き合い方を考えさせられる一冊。
    マルセイユの海鞘(ホヤ)
    マルセイユの海鞘(ホヤ) 虫に関する著書で知られるフランス文学者が、日々の思索を綴った随想集。東京・上野の生活、虫の世界、便利になる風潮への憂い、原発への不信感など幅広い内容を収める。  著者は「昆虫の標本を作っている時が一番楽しく、上手く出来あがった時は精神が浄化されるような気さえする」という。標本室には整理済みのものと未整理の標本が30トン。さらには文献が10トン。そこで住んでいた家を壊して小さな博物館をつくったのだが、経営は苦しい。会費振り込みのお願いをと、会員の住所氏名の宛名書きをしていると、会費をいただくことに感謝の念が湧いてきたという。あるいはテレビ局が、ファーブルが研究したことで知られる糞虫の仲間を撮影するので、共にコルシカ島に向かい、ボタボタ落ちている牛糞を、黒いビニール袋に片っ端から投げ入れたときのこと。ホテルの便器の横で袋をあけ、大漁に笑いが止まらなかったとか。 「ちょんちょんという、この軽薄さはいったい何事であるか」と大勢の人間がパソコンに毒されているように思えることを皮肉るなど世の中への風刺も健在だ。
    ネット選挙とデジタル・デモクラシー
    ネット選挙とデジタル・デモクラシー ネット選挙が解禁された昨年7月の参院選。候補者はソーシャルメディアを選挙運動に採り入れたが、これまでの選挙との違いはよく見えなかった。所詮インターネットは日本の政治では小さな存在なのだろうか? この疑問に答えようと、情報社会論や公共政策学が専門の著者が今後の「情報と政治の関係性」を俯瞰する。  ネット選挙の意義は政党や政治家が日頃からネットを意識し、情報発信せざるを得なくなったことだという。すると市民が彼らの発言を検証できるようになり、「政治の透明化」が進む。他方で政党がネット上の言説を分析してPRに使う「政治マーケティング」も高度化する。しかし、ネットの「双方向性」を生かした政策論争は広がらない。これは、日本の政治習慣に問題があるからだと指摘し、IT技術を使って政治の情報化をめざす「オープンガバメント」の拡大に期待をかける。  詳細な分析より全体像を描くことを優先した結果、わかりやすくまとまっている。政治の変化を見通すために今読みたい本だ。
    フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人
    フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人 本書は現代日本の食事情を土台に政治意識を考える、という斬新なコンセプトに貫かれている。  近年、日本人の食意識は二分していると著者はいう。他方には地産地消やスローフードに代表される健康志向の「フード左翼」が、もう他方にはマックやB級グルメなど、安さと量を重んじるジャンク志向の「フード右翼」が存在する。多くの日本人は後者にあたるという。友人や家族など身近にも当てはまる人はいるだろう。「左翼=革新/右翼=保守」という構図に照らせば、前者は大量生産による食の安全性破壊を批判し、他方後者は食に競争原理を組み込み市場多様化を追求する。  一見、政治と食とは無縁に思える。しかし例えば、アメリカではコーヒーを飲みながらアップル製品でネットニュースを読む都市リベラル層を「スターバックス・ピープル」と呼ぶ。政治は生活スタイルや消費態度の問題でもあるのだ。なぜこれまで両者を切り離していたのか疑問に思えてくる。切り口の面白さはもちろんのこと、遠くにある「政治」を足元から再考できる良書だ。
    ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石
    ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石 ベースボール好きで勉強嫌いの子規と、帝大一の秀才で知られた漱石の厚い友情を描いた青春小説。野球好きの著者が長年、構想を温めていたという。  幼名の升(のぼる)から、「ノボさん」と親しまれ、周りに自然と人が集まる子規。反対に、冷静沈着で他人に人一倍厳しい漱石。この二人が寄席を通じて仲良くなった。奇遇にも、子規は「漱石」という雅号を使おうと考えていたことがあった。漱石の住む愚陀仏庵(ぐだぶつあん)で二人が同居する場面は興味深い。子規のいる階下はたちまち訪問者で賑やかになり、漱石も句会に呼ばれる。さらに大食漢の子規が取った鰻や刺し身の勘定が漱石にまわって来る。だが、漱石は友に卑しさを感じなかった。  カリエスを患いながら、訪ねてくる誰にも丁寧に接する友。隠居の遊びと呼ばれていた俳句の価値を知らしめようと、独りで俳諧の大系の編纂に取り組む友。「歌は万人のものだ。断じて、えらい歌よみの専有物ではない。(中略)老人などにはかまわず少年青年は歌を詠むべし」と血気さかんだった。享年35。静かな感動をさそう友情譚。
    「在日特権」の虚構
    「在日特権」の虚構 2013年、在日特権を許さない市民の会(在特会)が在日韓国・朝鮮人(在日)を対象に展開する過激なデモと、それに対するカウンター活動が世間の注目を集めた。本書は後者の中核を担う著者による、対抗言論の書だ。  学術研究やメディアが荒唐無稽と黙殺するなかで、実体のない「在日特権」は拡大した。デマの数々に切断線を引くため、代表的なもの──特別永住資格、通名、生活保護受給率など──を取り上げ、いずれも「特権」に該当しないことを丁寧に検証する。目玉は三重県伊賀市への取材章だ。2007年、同市で在日への住民税が減免されていたことが明らかになり、ネットで「特権」と騒がれた。著者は関係者に再取材をかけ、減免の本来の狙いが曖昧な法的地位ゆえに生活苦を抱えた在日への救済策であったことを炙りだす。現場まで赴くその真摯な姿勢に、頭が下がる。  ヘイトスピーチへの問題認識は、国内で未だ十全とは言い難い。だからこそ現状への対症療法に留めず、将来まで読み継ぎたい一冊だ。

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