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「新書の小径」に関する記事一覧

「謎」の進学校麻布の教え
「謎」の進学校麻布の教え 麻布高校といえば、高校野球の東京大会で、相手チームに「落ちこぼれ」「悔しかったら東大入ってみろ」と野次ったことで有名である。麻布、開成、武蔵といえば「有名男子進学校御三家」で、中でも麻布は何しろ立地条件がいいし、あか抜けてるような印象もある。今さらなんの謎の解明なのか、と思って読んでみたところ、たいした謎はなかった。「麻布とはどういう学校か」ということを、在校生、教師、卒業生などにつっこんで聞いた、というものだった。有名人では与謝野馨、山下洋輔、橋本大二郎、中条省平らが登場している。  文化祭が面白いらしい。そういえば開成は運動会がすごいとか言ってた気がする。そのへんが校風の差か。麻布の文化祭は、学校創設以来、大切にしてきている「自主・自立」の精神の象徴なのらしい。ノンフィクションライターの著者がインタビューした文化祭実行委員長のA君も、会計局長のB君も髪を染めている。服装も自由、髪の毛も染めてオッケーなのだ。運営は当日の仕切りのみならず、予算管理まで、生徒がする。Tシャツなど文化祭グッズを売って、毎年黒字なのだという。  基本的に「デキる学校の余裕」がぷんぷんに感じられる。校則もない、大学進学にも拘らない、と言われても。そうまで言うなら大学進学禁止、とかまでやってくれよと言いたくなるが、きっと「いや、進学がいいとか悪いとかではなく、あくまでも生徒の自主性に任せ」とか答えるんだろうなあ。それでも、こういう層から良心的なリベラルな人も出てくるだろうからガマンしなくてはならないとも思うものです。  でも、それと同時に、学校時代なんて、どんな教育を受けてようが「その時代を懐かしむ」ような人間はロクなもんじゃないと思う。学校なんて「思い出したくない時間」になるのだから、やっぱり注意深く学校を選んだほうがいい。この本はそのためにも読んでおくべきかもしれない。
マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃
マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 本書を一読して思うのは、『ベルサイユのばら』ってのはよくできてたんだなあ、ってこと。  マリー・アントワネットの生涯を丁寧に追う&彼女がどうしてああいう運命をたどったかを解き明かすという内容だけれど、だいたいは『ベルばら』を読んでいたらそこに描いてあったような気がするのである。少なくとも『ベルばら』読んでれば、この本の理解はすごく早いと思う。作者もいちおうそれはわかってるみたいで、アントワネットとフェルセンの恋愛のことなんか「皆さんご存じ」を前提にしてる。『ベルばら』がなかったら日本人のほとんどはフランス革命なんか知らずに終わってますよ。  もちろん『ベルばら』だけでは知り得なかった情報もある。アントワネットとルイ16世の「7年間成就されなかった結婚」の問題について。これは、ルイ十六世が包茎で、その手術を勧められたが怖がって七年かかった、という、歴史小説家ツヴァイクの説が有名であるけれど、そうじゃないそうだ。包茎ではなくて、単に結婚当初は夫婦ふたりとも子供で(いまの日本でいうなら中学3年生と2年生)、その後はやろうとしたけど痛くてできなかったと。「マリー・アントワネットのほうには狭いという事情もあったようだ」とも書いてあって、そうか狭かったのか、と感じ入る。  アントワネットの兄のヨーゼフが、「結婚が成就されない問題」解決のために、オーストリアからフランスにやってきて、ルイ十六世に包茎手術をウンと言わせた、っていう通説も、そうじゃない、と。ヨーゼフはルイ16世には「ともかくも思い切って最後まで行けと言い」、アントワネットには「夫にもっとやさしく接し、本気で取り組めと言い聞かせたに違いない」というところは笑ってしまった。ヨーゼフが書いた手紙が残っていて、フランス文学者の著者はそこから「違いない」と書いている。もちろん、包茎問題以外にも読み所はあります。
媚びない力
媚びない力 最近の新書は「有名人のノンキな自伝」発表の場になっているような気がする。その「有名人」というのは、功成り名遂げ、悠々自適、すでに第一線ではない。そういう「昔超有名人」の出した新書は、途中で自分の昔話自慢話になる、そのゆるい流れが「現在の新書」の現状をよく表している。  さてこの杉良太郎の新書、タイトルはいかにも新書風だが内容は昔語り。では「隠居の自慢放言」かといえば、そうではない。  内容はまさに、自分がいかに努力の末に役をつかみ取ってきたかとか、いかに努力して舞台をいいものにしてるかとか、いかに有名人に自分の努力を認めてもらったかとか、いい気な話ばっかりなのだ。しかし口調に異様な迫力……うまく説明できないのだが……チンケな虚栄心などとは遠く離れた迫力がある。松本清張も半生記を書くために追いかけていたという、伝説の大物総会屋である上森子鉄から電話がかかってきて会った、というエピソードなどぼう然とする。大物総会屋とくれば黒い交際とかを想起させるので隠してるのだろうか、と考えてもみたが、どうもそういう感じはしない。互いに生い立ちを語りあうのである。 「大物が『わしはここまで生きてきて、こんなに偉い子に会ったのははじめてだ』と語った、それを皆さまにお伝えしたい、私は杉良太郎だから!」とじっと目を見て言われてる感じだ。  舞台で切腹シーンを本気でやるために豚の臓物を用意して、ブスリとやったら腸があふれ出るように工夫をした、という記述がある。その工夫自体に新味はない。でも、切腹場面に懸けるその力の入れようが、なんともヘン(悪い意味ではないのだが、他に言い方をおもいつかない)なのだ。ただ、この切腹観は、三島由紀夫などどう思ったのか、生きていたら切腹対談などしてみてもらいたかった、というぐらいの、なんともいえぬ凄みである。  杉良太郎。よくわからないがなんだか凄い、と思わせる本である。
女の一生
女の一生 岩波新書で『女の一生』というタイトルときたら、モーパッサンか森本薫(劇作家)かと思うところですが、これは伊藤比呂美による「人生相談」の本。  伊藤比呂美は詩人で、小説や随筆も書く。そして人生相談もやっている。物書きの人生相談ってのは、タメになることを答える、ことよりも「よりおもしろい(=思いがけない)回答」を期待されるような気がするが、伊藤比呂美の人生相談は「タメになることを思いがけない言葉で言う」ものだ。昔からこの人の回答は「みもふたもな」かった。その「みもふたもなさ」というのは、この人が若い頃に書いていた詩に「おまんこ」が頻出したのと同じような、読者に対して過剰な自意識をビシャッと叩きつけてくる感じ。時には気持ちがいいが、時にはカチンとくる。ま、それも含めて楽しむのが伊藤比呂美の人生相談。  たとえば「更年期障害のホットフラッシュがつらい」という相談には「アメリカの甘くないスイカを食いまくってしのいだ」という回答で、これなんか私にはカチンとくる。ねえんだよ、ここにはアメリカのスイカは! と言いたくなる。まあ相談もたいして切迫もしていないだろうが。でも更年期うつにはホルモン療法が劇的に効くという役立ち情報も書いてある。  他に、白髪を染めたほうがいいかという問いに対して「(更年期の女性は髪を短くする、それはパーマをやめて白髪染めを優先するからだと言われるが)長い髪の毛は、女でした」「それを、今、切り捨てる」「それまで離れられずにきた女らしさを、月経とともに、捨てる」と、こうだ。なまぐさい詩のリングに引き出された気分になってしまう。  大学生ぐらいの頃、伊藤比呂美を読んで大いに影響を受けたものだが、今は食傷している。でもつい読んじゃう中毒性があり、そしてよく読めば悪いことは言っていない。カチンカチンきながら、たぶん死ぬまで読み続けることだろう、伊藤比呂美。
日本全国「ローカル缶詰」驚きの逸品36
日本全国「ローカル缶詰」驚きの逸品36 世間にはいろんな缶詰があるもんだ、と思いたくてこの本を買ってみたが、案外そうでもなかった。さいきん「あえて缶詰にしなくてもいいものを缶に詰めたキワモノ缶詰」はけっこうあり、本書にも「だし巻き」の缶詰なんてものが紹介されている。京都の卵焼き専門業者がだし巻きを作っているのだが、それが6缶セット3300円と言われると「酔狂」という以外の言葉が思い浮かばない珍缶詰だ。でも、だし巻きとはちょっとジミではなかろうか。  私が期待するのは「デコレーションケーキの缶詰」とか「かき氷の缶詰」とか、どういう構造なのか想像もつかないキワモノ缶詰と、そのガッカリな種明かし、みたいなものだったんですけど。  缶詰というのは、案外と堅実なものなのだ。大きく分けて「素材系(ツナやサバ水煮やコンビーフとか)」と「調理系(牛の大和煮やシチューとか)」とあり、私としては缶詰食品ならではの、缶の金属臭と、みょうに濃い味つけが印象的な調理系に惹かれる。もちろんそういう缶詰はいっぱい紹介されているのだが、缶詰博士を名乗る著者は「多くの人は、いまだに、/(しょせん、缶詰。大したことない、ない)/高を括っている」などと書いていて、つまり、缶詰とは思えないほど美味しい、ということをホメ言葉として使っているのだ。私はこれが不満だ。「缶詰ならではのまずさ」こそが「缶詰の楽しみ」ではないのか。……そんなことはないか。  沖縄のタコライス缶詰なんて、缶詰ならではのチープ感をかもしだしそうなのに「本格的ですぞ」とか書かれていてうなだれる。「これなら……」と思ったのは、静岡の「清水もつカレー」ぐらいか。ウスターソースをかけたカレーの味に近いものがあるという。そこに豚もつ。これなら缶詰らしいチープ味でいいかもしれない。  ちょっと気になるのは紹介文がくだけすぎてるところで、もっとハードボイルドに紹介してほしかった。
ルポ 医療犯罪
ルポ 医療犯罪 いやもうひどい話である。  医療の現場で起こった事故、というよりも犯罪物件の詳しいレポだ。最初に出てくる事例が、生活保護患者を食い物にした悪徳医者による事件だ。する必要のない手術を、手術する腕のない医者にむりやりされて、そのまま死んでしまったおっちゃん。おっちゃんに手術代を払う能力はないが、生活保護を受けているから国から金を引き出せる、という仕組み。この医者は実刑判決を受けているから、ほんの少しは溜飲が下がる。  それにしても、この医者を実刑に追い込むまでのたいへんさたるや。病院の中で、医者が、専門用語で何か言ったら、シロートはうかつに口を出せない、出しても聞いちゃもらえない、警察も役所も「泥棒を捕まえる」ようには動いてくれない、この難しさ。医療犯罪にだけは巻き込まれたくない、と思うばかりだ。  しかし、この悪徳医者の医療犯罪よりも、この後に出てくる事例のほうがもっとこわいのだ。リピーター医師という存在!  これは「悪い医者のしでかす犯罪」というものとは違う。「3年間に4回の事故」を起こしてた医師をはじめとする、(たぶん)悪気はないが能力の問題などで患者を無用な死や後遺症に陥れる医者だ! これはコワイ! 悪気がないだけに本当にコワイ!  闇から闇に事故が葬り去られるのも恐ろしいが、医療事故として公になり、訴訟なんかも起こっているような、そんな事故を連続で起こす医者。しかし、医師免許を取り上げられるでもなく、医者として引き続き診療や治療をし、知らなかったらその医者にかかってしまうというこの恐怖。こういう医者相手の、訴訟の困難さ、めんどくささも詳しく書かれる。  ならば事前に調べていい医者に、となっても、がん治療方法一つとってもあっちがいいこれはダメいやそれが正しい、と上下左右から言われて立ちすくむばかり。健康を維持して病院に行かないようにしよう、と思わされる。

この人と一緒に考える

日本ミステリー小説史 黒岩涙香から松本清張へ
日本ミステリー小説史 黒岩涙香から松本清張へ 日本のミステリー小説の歴史なんて考えたこともなかった。子供の頃、学校の図書室で読んだ古い『かいとうルパン』や『シャーロック・ホームズのぼうけん』が、何か妙なもので、単に子供向けというだけではない独特のものがある、と感じていたものだが、この本を読むと、「そうか、外国の怪盗だの探偵だのの概念を、明治大正の日本に持ち込むのってたいへんだったんだ!」ってことがよくわかります。 『赤毛組合』では「赤毛であること」がすごく重要なのだけれど、当時の日本で赤毛って言われてもぴんとこないし、生理的な衝撃も与えづらいっていうんで、赤毛をハゲに変える、という方法で乗り切った、とかさ。「本来赤毛は何かしらミステリアスな展開を予兆させる要素であった。それに対し、禿頭ではそれがまったく機能しない。それどころか逆にすっかり緊張を緩和する方向へと向かわせてしまうおそれがある」。そりゃそうだ。でも当時の新聞に載った、「赤毛組合」ならぬ「禿頭倶楽部」(このタイトルの直球っぷりは素晴らしい)のハゲたおっさんのさし絵(大マジメな絵である)が、たまらぬ可笑しさをかもしだす。こういう「外国風俗をムリヤリ持ってきたドタバタ」の時期を経て、日本でも独自のミステリー小説文化が育っていく。  最後に紹介されているのが、日本ミステリー三大奇書のひとつ、中井英夫の『虚無への供物』であるのもしゃれた構成だと思う。ただ、ここで『虚無…』におけるホームズ役は「作品唯一の女性登場人物」と書いてあって、ええ? それって奈々村久生(シャンソン歌手)のこと? えーそうだったの? 私はずっと藤木田老がホームズ役だと思ってたよ、と驚いた。  あと、本書の眼目とはまったく関係ないんだが、「火サスの人」(「『火曜サスペンス劇場』の人」の省略形)という言葉は檀一雄の『火宅の人』を意識してのネーミングだろうっていうのも、私には思いがけない指摘であった。
ベスト珍書 このヘンな本がすごい!
ベスト珍書 このヘンな本がすごい! 珍書とはへんな本のことだ。へんな本、というのは本当にへんなのだ。想像を絶する文章や主張や絵や写真が、本という体裁をとって世間に流通している。本書はそんな本を写真集、図鑑、デザイン書、造本、理工書、語学書、人文書、医学書、エロ本、警察本にわけて紹介してある。  へんな本の中でも本当に面白い(=コワイ)のは、ウケを一切狙っていないものだ。本にするのだから「読者にウケたい」気持ちは当然としても、その心理の奥にはいろいろな表現がある。ここに並んでいる本は、どれも相当にへんであるけれど、並べてみるとへんの高低は明らかにある。編集者でもある著者のハマザキさんの厳しい目によってふるいにかけられているから、軽い気持ちで「ウケを狙ってへんなことやってる」ようなものは足元にも近寄れずにハネられている。そんな濃いセレクトの中でも「へん中のへん」が、はっきりと浮かび上がる。  最初に紹介されるのが「珍写真集」である。写真集というとアートの世界とも重なってちょっとオシャレな装丁が多い。だから写真集ならそれが「ゲロの写真集」だったりしても(本書に紹介されている『DRIP BOMB』で、会田誠らが推薦しているらしい)、芸術なのでは……と判断を保留してしまいがちだ。でも、アートなゲロなど取るに足らないほど、もっとすごいへんな写真集はいっぱいある!  ただし取り寄せて読むのはやめておいたほうがいいような気がする(たぶん読んだらつまらないと思う)。それでも私は、前年を代表する壮大な葬儀をオールカラーで紹介し一冊5万2000円もする『葬儀トレンド写真集2013』(葬儀社向けの資料集)と、高尿酸血症と奇岩・奇石と童話の三つのテーマが一冊になっている『写真と童話で訪れる 高尿酸血症と奇岩・奇石』(著者は岡山大学病院長)は入手したくてしょうがない。  この本はやはりKKベストセラーズの「ベスト新書」で出て欲しかった。
信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ
信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ 足利義昭。十五代、最後の足利将軍。義昭、がんばっている。この本を読んでしみじみ思うのがそれ。幼い頃に出家して(もちろん自分の意志じゃない)権力と切り離されて生きてきた将軍家の次男が、兄将軍が殺されていきなり世間に出てくる。  有力大名によって出てこさせられる。と聞くとあからさまに「傀儡!」と思い、実際そう言われてたりするが、残された書状や日記の類から見ていくと、ものすごくしぶとくがんばってるのだ。  当時、足利将軍は力も衰えていて、京都にいることすらできないような状態であり、義昭も近江の地で京都を狙っていた。その時に目をつけて組んだ相手が織田信長。お互い上洛を狙っているので、いいコンビとも言えるのだが、何かこう、見ただけで破局の予感があるコンビでもある。で、予感通りうまくいかなくなる、その過程がこの本を読むとよくわかる仕組みです。決定的だったのが、信長が出して世間に流布させた十七カ条の異見書で、その内容は「義昭という人間は強欲で吝嗇(りんしょく)、幕府の人事・待遇も私情によって行われている」という人格攻撃だった。戦国史研究家の著者は、「(義昭は)批判された通りの人間だったのであろう」と書いている。義昭はそれなりに権力をもった存在になっていたのだ。  織田信長と足利義昭というと、信長が圧倒的に強者で、義昭はいいように利用されてたんじゃないかという思い込みをひっくり返してくれる。信長、苦労してたんだ!葬式の祭壇に抹香ぶちまけた勢いで天下統一したようなイメージがあったからなあ。信長と義昭は互いを利用すべく機嫌とったり、時に高圧的に出たり、裏をかいたり、いろいろやっている。それで不穏になったり仲直りしたり。天下を獲るのはたいへんだ。  そして信長は本能寺の変で死んでしまい、義昭は豊臣政権下で「元将軍」として「一大名」に格下げとなり、静かに暮らした。結局、どちらが勝ったんだろうか。
金沢を歩く
金沢を歩く 書名通り「金沢を歩」いた本だ。それは、町を歩いて風物を紹介もしているし、町の成り立ちから歴史を歩んで紹介する、という意味もある。  古都・金沢であるので、まずは文化的なものから紹介される。兼六園や尾山神社といった古くて有名なものはもちろん、金沢市民芸術村、鈴木大拙館、金沢21世紀美術館といった新しい文化施設。「文化的、芸術的価値の高い施設が、町の中心部に、先鋭的なデザインの建築としてたくさんある。さすがに金沢!」と思わせる。  とくに、金沢21世紀美術館は、現代美術の有名作家による作品が入っていて、おまけに建物はSANAA(有名建築ユニット)の設計で、「芸術新潮」とかで大々的に取り上げられてた記憶がある。市民がするすると入ってきて、現代美術を楽しみながらくつろげてしまうのだ。年間の入館者は約150万人。こういうものが自分の住んでる町の真ん中に出来て、それが市民に受け入れられるようなところに住んでみたいものよ……と思わされる。  しかしこれだって「古都に現代美術館はそぐわない」というような反対があったそうで、しかしこの美術館建築を進めたのが「当時、市長だった私」。つまり著者。この本、金沢市の元市長によって書かれた本なのである。  旅行者でなく、住民でなく、為政者が書いた「町の本」。前田家からの歴史が積み上げられてきた古都。ただ古いだけではなく、そこに新しい文化も育てて定着させて、さらに魅力的な“生きている古都・金沢”を、自分が先頭に立ってつくった、という自負がある人による「金沢本」なのだ。  控えめな筆致ながら、金沢の素晴らしさが語られまくる。読めば読むほどいい町なんですねと思う。ただ、これはイチャモンに近いけれど、あまりに公明正大な感じの文章で、なんだか市役所のパンフレットにある「市長の序文」がえんえん続いて一冊になったような気にもさせられるんですよね。
日本の軍歌 国民的音楽の歴史
日本の軍歌 国民的音楽の歴史 軍歌にはけっこういい歌がある。『雪の進軍』とか『愛馬進軍歌』とか、たまに口ずさんでいることもある。困難に直面すると「すぎのーはいずこーすぎのーはいずやー」などと歌うこともある。  この本は「軍歌紹介本」ではなくて、どのような過程で日本の軍歌が成立していったかが眼目だ。  まず、明治時代の初期の軍歌は、西洋音楽を学んだ作曲家、東京帝大総長になるような文学者による作詞、今で言えば……といっても思いつかないぐらいのエリートなメンツで作られてたのだ。なぜかといえば「国策」だからで、国が強くなるために軍隊が強くなる!そのために勇壮な応援歌を! 先端の音楽と格調高い詞を! ということで、当時のトップエリートが用いられたわけですね。  じゃあ軍歌が高尚なエリート音楽になったかといえばそんなわけはなく、圧倒的多数の庶民がガンガン「歌って」くれないと意味がないので「軍歌」。つまり軍歌は「庶民の愛好する歌=流行歌」にならなければならないのだ。そりゃマニアにしか愛好されないとか、上流階級のたしなみでは困りますわな。  黎明期の軍歌がどのように生まれてどのように流通し流行していったか。外国の軍歌が和訳されて歌われたり、日本の軍歌「日本海軍」が北朝鮮で「朝鮮人民革命軍」という替え歌となっていたり、なんて話には「へー」と思うけれど、これが流行歌だと思えば、洋楽に日本語乗っけて歌う弘田三枝子とか東京ビートルズとかと同じで、ごくふつうの話である。  他にもマニアックな軍歌にまつわるネタがいっぱい載ってて面白いのだが、この「軍歌は流行歌」という部分がいちばん重要で、つまり「軍歌は昔の話じゃない」ということ。これ読んでて、エリートによって作られた初期の軍歌と、安倍首相がASEAN夕食会でEXILEとAKB48に歌わせたって話は同一線上にあるような気がした。そこに選ばれることと、その歌手の関係については、また別に論じなきゃいけないわけだが。
江戸の貧民
江戸の貧民 最初に、上野、浅草、吉原、三ノ輪、南千住、といったあたりのおおまかな地図が載っている。そこには、汐入の土手、スサノオ神社、山谷、待乳山聖天、(浅草寺の)奥山、などが書き込まれている。この本のタイトルは実に端的で、江戸時代の貧民が暮らしていた場所を地図の上で歩いてみようというものだ。 「おとしめられた人たちはどのような土地にいたのか」  という、作家である著者の印象的な冒頭の一文から、引き込まれてしまう。そういう人びとがいたところが美しい庭園や小路であったはずはなく、しかし彼らがいたのは、そんな美しいものを内包して栄えた場所の周縁なのだ。  江戸でもっとも早く栄えたのが浅草で、浅草寺の元になる持仏堂が推古の時代につくられ、それをつくった兄弟は明日香村からやってきた者だ、とかいわれるとなんだか頭がクラクラする。その浅草寺を中心にして文化が芽生え、爛熟し、その渦に吸い寄せられるように人が集まり、その渦から外れた人たちもまた周縁にわだかまる。  浅草の、弾左衛門屋敷跡のあたりをたどりながら、弾左衛門という存在(差別された人びとの中の、頭領ともいえる者に代々受け継がれた名前だ)がどのようにして成立したのかが詳しく書かれる。大名並みの扱いを受けていたという弾左衛門の大きな屋敷の図。そして周りを囲む寺院。まるで知らない世界がそこにある。芸人、物売り、香具師、見世物、虚無僧などが、寺や神社の参道に溢れかえっている。その町並みはもう消えてしまっているが、地図の上にはまだ当時と同じ場所に寺や水路が残ってる。  美しい昔の日本、というと城や寺院や庭園ということになってしまうが、そうではない日本も当然あって、それもまだ今に残滓を伝えていて、それはやけに心を惹かれるものであり、一種の文化であった、ということを思い出させてくれるのがこの本です。地図見ながら行ってみよう。

特集special feature

    靖国神社
    靖国神社 靖国神社について人はもうフラットに考えられなくなっている。とくに書籍で靖国神社を扱うものは、「書いてるお前の立ち位置」を見極めないと落ち着いて読めない。これもズバリ靖国神社について書いてある本だが、不思議なことに、著者のスタンスがあんまり気にならない。靖国神社が単なる都会の大きな神社のようである。靖国はイデオロギーを抜きにしては語れないし、実際この本でもそれは多く語られる。「会員800万人、日本遺族会の政治的圧力で国家護持へ」「中曽根康弘の正式ではない『公式参拝』」とか。  じゃあそのことについて著者はどう思っているのか、読者にどう思わせたいのかというのが、ないわけないのに淡々としていて、教科書を読んでるような気分でスルスルと読んでしまう。つまらなかったらスルスル読めないので、面白いわけだ。じゃあどういうところが面白いか。  由緒です。大きな神社の由緒についてきちんと書かれたものは読み応えがあるものなのです。私は靖国神社にいっぺん詣ったことがあり、白い鳩や、妙な迫力のある遊就館ばかり印象に残っていたが、広い敷地の中にはさまざまな碑や像が建立されていて、靖国神社の公式サイトに載っていないものがある、とかいうのはワクワクするではないか。それは「特攻勇士之像」と「特攻勇士を讃える碑」だそうで、別に隠蔽されたというものでもなさそうだ。「特攻勇士之像」を見るために靖国神社に行こう、という気になる。  寺社巡りの趣味がある人ならわかってもらえると思うけれど、「神社の中にある人知れぬもの」というのはやけに愛好者をワクワクさせるものなのだ。他にも、あまり名の知られぬ鎮霊碑や末社などが、大きな神社だからいっぱいあって参詣心をそそる。  そんな神社の由緒が、コンパクトにキッチリ書かれている。天皇が参拝しなくなった経緯が最終章に書かれているけれど、それも淡々と、かつ乾いた筆致であるのが良いです。
    魔女の世界史 女神信仰からアニメまで
    魔女の世界史 女神信仰からアニメまで 魔女といえば、童話の魔法使いや中世の魔女狩りのことが思い出されるが、本書にはそういうことはほぼ書いていない。 「魔女」の定義が違っている。十九世紀末に、「明るく広く、まっすぐな表通り」に対する「暗く、細く、曲がりくねった裏通り」の“魅力”のようなものが見いだされた。その「暗く曲がりくねった世界」のものとしての「魔女」だ。宗教的、政治的な抗争によって魔女の地位に追いやられるのではなく、文化的、芸術的、風俗的な現象として現れる魔女。  いる、いる。19世紀末から発生した、「イカス」ところである「魔女」。歴代のそういう「魔女」の皆さんの傾向を固有名詞をあげて紹介されている。フィクションの世界の有名魔女から、ホンマもんの芸術的な魔女までずらりと並びます。濃い!   美しい写真つきで「シモーヌ・ド・ボーヴォワール」を魔女の一員と紹介されると、わけもなく「魔女様!」とひれふしたくなる。もちろん、ボーヴォワールには「フェミニズムが点火され、魔女が目覚める」という、人に威張れる背景があり、この系譜の新魔女はヒッピー系やニューエイジ系で大物小物とりまぜてたくさん登場する。著者によれば、『飛ぶのが怖い』で人気作家となったエリカ・ジョングも新魔女で、この小説は空飛ぶ魔女になることを書いた魔女小説なのだ。  お堅いのばかりではなく、レディー・ガガらロックやパンク周辺に現れる魔女から、ゴスロリ少女にまで「魔女観」が広がっていく。そうなると多少俗っぽくて魔女も安くなってくるのだが、その安さは「魔女が魔女裁判によって処刑されること」などない現代の幸せな風景なのであろう。  巻末の「新魔女」に関連する「人やものや現象」について書かれた百の小文によれば、AKB48は「いかなる場所にもあらわれることができる小さな魔女」である。その直後に紹介されたきゃりーぱみゅぱみゅは「一緒にすんな!」って言いそうですが。
    逆転力~ピンチを待て~
    逆転力~ピンチを待て~ 人は、指原莉乃についてどう思っているのだろうか。「人によって違う」というのがもっともありふれた、でも正しい答えだ。たとえば私は、指原が所属するHKT48の、指原ではないメンバーが好きで、選抜総選挙などではライバルになる。おまけに指原の芸風を好まない。積極的に「敵」なのだが、一方でHKTというグループを目立たせてくれるというありがたい存在で、つい感謝しちゃったりするのだ。  そんな指原さんが本を出した。誰に向けて書かれたか。指原ファンに向けてではない。指原嫌いの人、指原と一緒に仕事をするであろう人、の両方に向けてである。「自分が、決して恵まれた存在ではない(イジメで不登校にまでなっていた!)」ことを自覚して、どうしたら自分が恵まれた立場になれるかを細かく書いてある。  自分がやりたいことをやるのではなくて、相手が求めていることをやる。……言うほど楽な話じゃないよ、と思うが、「MCは焦らないで自分が思っていることをゆっくりしゃべる」「笑顔の挨拶で好感度を貯金」「企画を出す時は絶対無理なのを一つ混ぜておくと本命が通りやすい」「本命をムリだと言われたらとりあえず引き下がる。良さをアピールしようと食い下がると反論してると思われてきっと相手はいい気持ちしない」とか、やけに具体的な対処法などが書いてある。これは一種のビジネス書だ。スタッフには「こういうのがいると現場は助かるぞ」と思わせ、指原嫌いの客には「案外いろいろ考えてるじゃん、見直しちゃった」と思わせる営業。指原は秋元康に贔屓されていいポジションにいる、というのはAKBファンが好んで言う悪口だが、そりゃプロデューサーもこういう子には目をかけるよな、と納得の話が満載。  だが、秋元康から「面白い」とメールをもらったという指原のブログが載せてあるけど……ウケを狙ったよくあるツマラナイ文章だった。やはり秋元康の依怙贔屓なのか、とふと思ってしまう。
    女子高生の裏社会 「関係性の貧困」に生きる少女たち
    女子高生の裏社会 「関係性の貧困」に生きる少女たち この本では「JKリフレ」について、何人もの女子高生に話を聞いている。「JK」は「じょし・こうせい」だが「リフレ」は、恥ずかしながら経済用語か何かかと思ってました。リフレクソロジーの略です。つまり「女子高生によるマッサージ」で「女子高生が触ってくれたり」「ついでに女子高生を触っちゃったり」みたいな風俗。「JK産業」と呼ばれるものがあって、それは「一緒に散歩」から売春までひと通り揃った「女子高生セックスワーク」だ。  ごくふつうの、家庭もちゃんとした、勉強もやろうとしている女子高生が、なんとなくこういう商売をする。正直いうと、「こういう仕事がどれほど危険で、どれほど若い女の子をスポイルするか」と説明されても、ちょっとキモイおっさんでも一緒に散歩しただけでお小遣いもらえる割のいい稼ぎだから、イヤなことはイヤと言ったうえでやりたい、と思いそう。これ読んで「リスクは承知」でJK産業に参入する女子高生が出てきそうな危うさを感じる。  JK産業が女子高生たちの、ちょっとした気持ちの隙間に入り込んで、親切ごかしに居場所を提供する。女子高生たちはずるずるとその穴ぐらにはまりこむ。彼女たちの話をいくら聞いても、ならどうしたらいいのかは見えてこない。著者は彼女たちの自立支援をしているのだが、それでも女子高生たちに「何ができるわけでもない」「救えない」と言っている。女子高生は話を聞いてもらえる(時に泣きながらの電話もある)ということで著者の取材に付き合う。  こういう本で「今どきの若いもんは」と怒ったり呆れたりするのは簡単だが、今の若い子が軽薄だとすると彼女たちを巻き込むシステムは大人がつくってるわけだから、大人も軽薄でさらに悪質だと自覚しておくほうがいい。それにしても、JK産業に来る客が「デブで汗かいてるオタクみたいなのが多い」というのも、胸が痛い話だ(自分が男なら確実にそのタイプだし)。
    名画で読み解くロマノフ家12の物語
    名画で読み解くロマノフ家12の物語 「名画で読み解く」シリーズの第三弾。ハプスブルク家、ブルボン家ときて、ネタは尽きたかと思ったらロシアのロマノフ家を出してきた。この王家はこんなに波瀾万丈なんですよ、ということを名画から教えてくれるのだが、これもたいへん面白い。  西欧やロシアの王家なんて近世に戦いによって樹立されたものだから盤石なようで盤石でない。だから絵画で正統性や高貴さを演出してるわけだ。つまり神話を創り出そうとしたのである。今となってはその王朝もなくなり、神話ではなくなり、「歴史」によっていいこと悪いことが白日のもとにさらされてしまった。そんな今だから、見ていて楽しくてしょうがない、王家がらみの名画なのだ。  オーストリアやフランスとくらべてロシアとくると何かあか抜けず、田舎の金持ち、みたいなイメージがある。さすがに王家となるとそんなことはない……こともなくて、イワン雷帝が息子とケンカしたあげく息子を殺しちゃったところの絵など、なんともいえない無教養な雰囲気が漂っていて救いがない。これがハプスブルク家とかだと、周囲の文化だけはちゃんと感じさせたものだが。  ピョートル大帝の姉、「皇女ソフィア」の絵もすごい。男勝りで頭もよく、弟ピョートルを始末しようとしてた姉ソフィアの、風貌がすごい。抗争に敗れて修道院に押し込められている。窓の外には弟が見せしめに処刑した、反乱首謀者の首吊り死体がぶら下がっている。ソフィアの表情はマツコ・デラックスがさらに仮装して凄んでるみたいだ! 激しくロシアっぽいよ、ソフィアさん!  ロシアにおける王家の絵画は女の肖像画が見モノである。有名なエカテリーナ二世をはじめ、よく知らない王妃とかでもやけに生々しい。エカテリーナ一世なんて近所のおばちゃんと見紛う庶民的風貌。でも金はある。憎めないが尊敬できないという、ロシアのある種のイメージをきっちり絵画によって見せてくれる。
    殿様は「明治」をどう生きたのか
    殿様は「明治」をどう生きたのか 書名を見てわかる通り、明治維新を乗り越えた「殿様」がどう暮らしたか、というネタを歴史学者が集めた本で、大量の「大名」様が、明治維新にあって、ヒドイ目にあう、ちゃっかり切り抜ける、ぼう然としている、などの様が紹介される。突然領地を没収された殿様が、どう身を処し、家来を守っていくか。一種のビジネス書として読むことも可能だが、そんなことよりも「殿様が右往左往している」のを面白く読むほうが楽しい。  会津藩の松平容保や土佐藩の山内容堂など、時代劇に出てくるような有名大名から、広島藩の浅野長勲、米沢藩の上杉茂憲、徳島藩の蜂須賀茂韶といった「幕末史的にそれほど有名じゃないが名の知れた大名」の有り様が書かれている。上杉茂憲が沖縄県令になって、独特の(住民を苦しめる)貢租収奪システムの改革に手をつけ、あたかも上杉鷹山のやったように「沖縄を立て直す」気持ち満々だったのが、熱意がありすぎて辟易されて途中で挫折したとか、知りませんでした。  全体に、殿様が「ヒドイ目にあった」とはいっても、「藩のために詰め腹切らされる家臣」級のヒドイ目にはなかなかあっていない。なんだかんだいってノホホンと暮らしてノホホンと死んでたりしている。  そんな中で請西藩主・林忠崇には驚いた。薩長相手に戦って賊軍となり(このとき藩主自ら脱藩届を出している)、幽閉された後、地元に帰って一農民として農業をやり、その後下級官吏に転じ、そこも続かず商人を志して函館にわたる。次に座間市の寺男として寺に入るが何もせず、また大阪の役場に勤め、娘が結婚したらその婚家で一緒に住みつつ、68歳で近所の人に鎖鎌を教えていたという。亡くなったのが昭和16年、享年94で、最後の大名となった。歴史に名は残らないがある意味すごい元「殿様」だ。この人のことを知れただけでもこの本を読んだ甲斐があった。
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