現代ジャズ解体新書 村上春樹とウィントン・マルサリス
巻末に、著者で音楽評論家の中山康樹と、ジャズ評論家・柳樂光隆の対談が載っている。そこで柳樂が「いま『音楽評論家』がいない」と言う。「ライター」はいるが「評論家」がいない。確かにそうだ。私は自分の好きなものについて、同意できてもできなくても、評論が読みたい。実物を見たり聞いたりするより、そっちのほうが楽しいことすらある。 この本は、村上春樹の『誰がジャズを殺したか』と題したエッセイがたくさん引用され、中山さんが感じた共感と違和感を書きながら、どんどん現代のジャズについての考えが四方八方に飛び散っていき、収拾がつかなくなっている。すべては、中山さんの正直な評論家魂によるものだ。この収拾のつかなさがイライラするし、同時に面白いところだ。 そもそも、村上春樹のジャズについてのエッセイが、いかにも村上春樹らしい、読んでいて気持ちいいが、しかしよくよく考えると「結局どうしたらいいんだ!」と肩を揺さぶりたくなるような文章で、その村上に「まあ、(ディジー・ガレスピーのライブを)聴けてよかったけれど、聴き逃したとしてもそれほど悔しくもないだろうな」などと書かれたら、ジャズファンとして何か言いたいと思う気持ちもわかる。ここで「ジャズのことなどわからぬ村上春樹を斬る!」という方向に行かないのが中山さんらしい。村上春樹の気持ちになって、そこから中山さんが考える「現代のジャズについて」が、ジワジワと、的を絞ることなく語られる。 実のところ私はジャズをまったく知らず、中山さんの本を何冊も読んで固有名詞のみ詳しくなっている。それでもジャズファンの一員という気持ちになっている。ウィントン・マルサリスの出現以降、ジャズが「つまらなくなった」とか「燃えない」とか語られているらしいが、このマルサリスはすごく興味深い。でも、文章だけでおなかいっぱいになってしまった。それはいいことなのか悪いことなのか。
週刊朝日
7/24