「新書の小径」に関する記事一覧

近藤理論に嵌まった日本人へ  医者の言い分
近藤理論に嵌まった日本人へ 医者の言い分

近藤誠氏の理論についてはいろいろな意見がある。無用な治療ががん患者を苦しめるという近藤説と、ほっといたら症状が進行してもっと患者を苦しめるという反対派。シロートにとってはそれぐらいの理解だ。「近藤理論にすがる人」は多い。  患者は楽になりたい。楽によくなりたい。がんで苦しいうえに、治療でもっと苦しいのなんか勘弁してほしい。でも、医者は「こともなげに抗癌剤を処方」して、あげく苦しんで死んでしまう。こう聞けば「抗癌剤などやめる」のも一つの選択であろう。もちろん、医者はそんな悪逆非道な拷問みたいなことをわざとしているのではなく、延命のための治療だ。しかし「地獄の副作用で完治率が50~60%」だとしたら、はたして患者はその地獄に耐えられるのか。  内科医である著者は書く。「ネット上には『もっともっと生きたかったのに、医者になぶり殺され、成仏できない幾千万の霊が……』とまで書いている人もいるのだ。医学的事実よりも、そう『思われている』ことのほうが問題なのだ」と。そして「がん専門医にかぎらず、(わたし自身もふくめて)抗がん剤を使用したことのある医者はみな、この悲しい事実を直視すべきだ」と主張する。  患者は余命宣告されたくない。いつ死ぬなんてことは本当は聞きたくないだろう。でもそれなくして「延命治療」というものはありえない。そりゃそうだ。じゃあ患者目線でムリな治療をしなければ、軟着陸のような死を迎えられるかといえば、家で寝てたらすぐ床ずれが起きるなどの病状悪化で、別の地獄が待っている。  人は必ず死ぬ。死ぬ時はだいたい苦痛を伴う。でも生きている人間はそのことを理解したくない。その気持ちに、近藤理論は寄り添ってくる。近藤理論というものに、ついはまってしまうその底なし沼的な魅力の構造がわかる。とにかく死ぬ時は苦しい、と普段から覚悟しておくことが肝要だろう。つらいだけの覚悟だが。

週刊朝日
名前でよむ天皇の歴史
名前でよむ天皇の歴史
ありそうでなかった視点の本。  昔は、名前というものに、今以上の意味も重みもあり、そうそう気安く名前を口に出すものではなく、身分の高い人は名前を呼ばれることもなかった。などという話を聞くと、それが天皇となれば、名前の重要性は最上級だろうし、その名前のつけられ方にもいろいろと深い意味があったに違いない。この場合の天皇の名前というのは、たとえば「神武天皇」における「神武」部分のことで、即位前の「神日本磐余彦尊」のことではない。この「神武」部分は、死後に贈られるものである。「人間業以上の武威(人知を超えた武力)」の意味だという。  歴代天皇の名前の由来と、命名に至る流れが書かれている。天皇の名前を見ていて、天智や天武、聖武、醍醐なんていうのは「さすが天皇!」と思わせる一方、一条、後一条、二条、後二条とか、何も知らずに見ていると「この名前は何か……安易?」と感じられるものがある。しかし、それは単にモノ知らずゆえの失礼だった。一条天皇は、在位中の御所である一条院の名によっている。天皇の名前にはそれぞれたいへん意味があり、思い入れがあるのだ!  有名天皇の名前に「後」をつける名前は多いが、長いあいだ即位礼もままならなかったりした天皇が、大昔の大帝ともいえるような天皇の名前を受け継いだりすることに「理想と現実のギャップに哀感を禁じえない」などと書いてある。天皇もたいへんだなあとも思うのであった。  ところで、死後つけられる天皇の名前であったが、生前「死んだらこの名前にしてくれ!」と言い残してその通りにさせた最初が白河天皇だそうだ。自分の邸宅のあった、桜の名所として知られていた美しい土地の名前。今でいえば「松濤天皇」とか「神宮前天皇」とかいうようなものか。鴨川の水と僧兵とサイコロの目以外は思い通りになると豪語した天皇にしては名付けの由来がカワイイので笑ってしまった。
新書の小径
週刊朝日 4/16
和食は福井にあり 鯖街道からコシヒカリまで
和食は福井にあり 鯖街道からコシヒカリまで
いきなり和食は福井にありと言われても、越前ガニぐらいしか思い浮かばない。福井の銘菓で羽二重餅というのはあるけど、カニと餅だけで「福井にあり」とは言わないだろう。それほど福井はすごいのか。向笠千恵子は、ごくふつうの生活の中にある地味な食べ物を取り出して紹介する文章の美味しさにかけては名人級の人なので、楽しみにして本を開く。  ああ、そういえば鯖街道というのもあったな。海があり山があるという土地なので、いろいろな産物がある。驚いたのが、コシヒカリは福井の農業試験場で生まれたって話だ。え! 新潟じゃないの! そして大豆が豊富に取れるということ。つまりコメとミソとショウユ。和の基本。  私は和食を貴重だと別に思っていないので「炊きたての白メシ、サイコー! ミソ汁グー!」とか言わない。でもご飯と味噌汁でも異様に美味しそうに感じられる献立というのがあり、この本で次々紹介されていく、福井の赤かぶ、福井のたけのこ、福井の昆布、福井の油揚げ……そんな質素なものの描写がうまそうで、「こんな献立なんてふだん食う気もしないのに、なぜだ!」と叫びたくなる。それはやっぱり、美味しいものを愛する向笠さんの気持ちが文章に溢れだしているからだろう。  ということは、他の土地の食べ物について向笠さんが本を書いたとしても、同じように美味しそうになりそうで、福井である意味がなくなるかもしれないのだが、……それは、向笠さんに選ばれた福井、というところに意味があると考えよう。福井には伝統の包丁もあるし、和食の基本である土地というのは間違ってない。  この中に出てきたものでは、越前うにというのがいちばん食べたくなった。越前のバフンウニに塩をして浜風に当てて熟成させる。超高級で爪楊枝の先でちびちび食べるらしい。私は丼にのっけて食べたいなあ。……そういうことを言うから和食の伝統がどんどん崩れるのか(と反省する)。
新書の小径
週刊朝日 4/9
イスラーム 生と死と聖戦
イスラーム 生と死と聖戦
新書界でも「イスラーム国」商売が盛んである。それぐらい「イスラーム国」というものが日本人にとってワケがわからず、何を考えてる集団なのかハッキリさせてくれ!というニーズがあるのだろう。数ある中で選ぶとすれば、やはり中田考さんが書いた本がいちばん面白そうだ。ある種、渦中の人であり、テレビで拝見すると、あのヒゲなどで隠されているが、中田さんはハンサムで素晴らしく声がいい。  イスラーム教の考え方、行動様式について書かれている。イスラーム原理主義というと「ジハード」で自爆テロ、というイメージがあるが、イスラーム教では自殺は許されておらず、自爆テロも許されない、しかし「ジハードは天国への最短ルート」というのがイスラームの正式な教義であり、「ムスリムであれば誰でも、同じ死ぬのであればジハードで死にたいと思うのが本当なのです」……というあたりから、「え、イスラーム教ってどういう考え?」と思いませんか。  そのへんを、イスラーム法学者の中田さんが平易な言葉で丁寧に説明してある。しかし、読みすすめると、日本人がイメージする宗教のありようとずいぶん違う。思ったよりもずいぶんゆるいし、同時に異様な厳しさもある。日本人だって宗教観はゆるいけれど、ゆるさの場所がイスラーム教とはぜんぜん違っているので、その違いに戸惑い、そこが面白いと思える。  そして「イスラーム国」である。どういう道筋でこの集団が一定の力を持つに至ったか、が終章で述べられるのだが、日本人には理解しづらいイスラーム教の考え方の中から生み出された、預言者の代理人である「カリフ」という制度と歴史から見ていかないと、到底わからない。イスラーム教のそのわからなさが一種の魅力にも見えてしまう。「イスラーム国」はカリフ制を復活させリーダーがカリフを名乗っているのだが、問題はその正統性だと中田さんは書いている。
新書の小径
週刊朝日 4/2
四国遍路 八八ヶ所巡礼の歴史と文化
四国遍路 八八ヶ所巡礼の歴史と文化
読んでるだけでへとへとになる。四国八十八カ所を回った気分だ。しかし同時に、疲労の果てにハイな気分で寺から寺へと飛んで回ってるような気にもなる。  四国遍路がいつから始まり、どのように発展し、今どうなっているのか、ということが書かれていて、お遍路の歴史を知ることができる。地図を見ただけで、目がくらむような距離であり、難所である。車社会の現在ですら行きたくないような山奥の道! そこを歩いていくわけです。ワラジとかで。そしてお遍路にまつわる文化。お遍路をすることも仏への行であり、お遍路さんへの接待をすることも仏への行となる。  同時に、お遍路をする人は「病気を治したい人」や「ふつうの生活から逃れざるをえない人」も多かったりするわけで、つまり「当時、忌避された人びと」が集まってくる場だったともいえる。それは差別の目にさらされることにもなる。まともな旅館は巡礼姿だと泊めてくれない、なんてことがあったようで、それも無理もないようなボロボロな有り様の巡礼者がいっぱいいたということだ。遍路の途中に死ぬと、後始末をしないといけないので、死にそうな巡礼者に「お粥を食べさせて機嫌を取り、後ろから押すようにして無理矢理に隣村まで連れて行ったり」「村境で巡礼者の行き倒れがあった場合には、こっそり向こう側の村へ押しやったり」「気づいた向こう側の村が押し返し」なんてこともあったとは。  近代から現代になるにつれて、交通網も整い、レジャーとしての四国遍路が登場してくる。バスツアーなども登場するし、自家用車の巡礼だって当然出てくる。もちろんホテルや旅館に泊まりながらのゆったりした旅だ。  それでも、自らの足のみで歩き、お接待をありがたく受けながらの巡礼も同時にある。どちらがご利益があるかなどということは関係なく、ただ「巡礼したい」人のために四国八十八カ所は、これからもずっとあり続けるのだろう。
新書の小径
週刊朝日 3/26
全国駅そば名店100選
全国駅そば名店100選
1日3食「駅そば」でいい。  ……と、カバーに印刷してある。こういうのはふつう帯に印刷してあるのだが、あえてカバーに刷り込んだところに著者のやる気が伝わる。「これだけ美味くて安い食べ物はない!」ともある。うーむ、駅そばがそこまでのものか。  この本は、日本全国のうまい駅そばを写真入りで紹介したガイド本なのだが、少し多めの前書き的なものがある。それを読むと「なるほど駅そば道は深い」と思わされる。駅そばの店が昔はホームにあったものが今はコンコースが主流である(ホームにあると、ホームが狭くなり朝夕のラッシュ時に危険になる)とか、「改札内外のジレンマ」なんていう見出しを見ると、著者の、駅そばに対する熱い思い入れが感じられる。  著者はきっと「美味い立ち食いそば」ではなく「駅にある立ち食いそば」というもの全体を愛しているのだ。手軽さや安さや、そしてある種のまずさまでひっくるめて愛す。それが「これだけ美味くて安い食べ物はない!」ということなのだ。  ページをめくって各地の駅そば写真を見ていると、いかにもまずそうなやつが出てくるのだが、それがかえっていい。以前から「まずいからこそ美味い」という食べ物はあるはずだと思っていて、まさにこの本の中にも現れる。それを食べに旅したいと思う。もちろん、「おっ、これはうまそうだ!」というのもいっぱいある。JR上毛高原駅の舞茸そばは、「舞茸の豊かな香りがストレートに感じられ、また食感も楽しい」とある。ぜったいうまいだろう。  駅そばの実力を測るには「たぬき」を頼めというのも勉強になった。しかしこの「たぬき」、著者は「天カス入りそば」のつもりだけど、関西で「たぬき」は「油揚げのせそば」のことだから間違わないようにしてほしい。「天カス入りそば」の写真もそこにちゃんと載ってるけど(相鉄二俣川駅のもの。うまそう)、関西の人は早とちりしないでください。
新書の小径
週刊朝日 3/19
大軍都・東京を歩く
大軍都・東京を歩く
古いものをたどって東京の街を歩く、という本が最近多い。「古いもの」が戦争関係であったらどうか。それも楽しいのだ。もちろんウキウキする楽しさではないが、「忘れ去られた、あるいは忘れてほしいかのように埋もれた遺跡」の存在にドキドキさせられる。  有名な公園の多くは軍用地であったということをこの本で知った。北の丸公園は、近衛師団の駐屯地だった。北の丸公園には歩兵第一連隊の碑がわかりやすいところにある。でも第二連隊の碑は奥まったわかりづらい場所にあるという。場所に意味などなかろうが、なんだか第二連隊の碑が見にいきたくなる。第二連隊の碑のそばには「岳麓山百合移植の碑」があり、そこには命令調で「できるだけたくさんの山百合を採ってきて兵営に植え、個数を報告しろ、最低一株は採れ」とある。「江戸歩き案内人」の著者も「想像がふくらみます」と書いている。  北の丸公園を出て、千鳥ケ淵にいくと高射機関砲台座跡がある。皇居を守るために設置されたもので、地下にはトンネルがあったらしい。春はこのあたりで弁当でも広げたい。ほかに代々木公園、日比谷公園といったあたりは元軍用地っぽいよなと思うが、光が丘公園までもそうだったとは思いもよらなかった。B29へ体当たり攻撃する特攻機がここから飛び立ったのだ。爆撃から戦闘機を守る掩体壕が近くに残っている。  赤坂の道端、自動販売機の横には近衛歩兵第三連隊駐屯地の敷地境界を示す「境界石」が立っている。東京ドームの脇には、陸軍の兵器工場だった東京砲兵工廠の基礎レンガが残る。戸山公園には、陸軍軍楽学校野外音楽堂の跡が六角形の小さな広場として残っている。北区立中央図書館は、弾丸製造工場を利用して造られており、鉄骨は九州の八幡製鉄所製で関東大震災でもびくともせず「ヤワタ」の文字が読める……。  戦争遺跡は日本中に残っているのだろう。けれど首都東京に残る戦争遺跡は、その埋もれ方も特別な感じがして良い。
新書の小径
週刊朝日 3/13
教室のいじめとたたかう ―大津いじめ事件・女性市長の改革
教室のいじめとたたかう ―大津いじめ事件・女性市長の改革
いじめ事件が起きると「いじめたやつの親はどういう教育してたんだ」という話題が激しく燃え上がった後、反動のように「でも自殺したやつ本人および家庭もけっこう変わってたし」的な話が広がり、そのうち人びとは飽きてしまう、という繰り返しである。  そういう人にとってこの本は面白くないだろう。いじめ事件の当事者が、問題と真剣に向き合うと、溜飲の下がる(誰かを断罪して一件落着みたいな)結論なんかにはならないからだ。  著者は、大津いじめ事件があった大津市の市長である。就任前に起きた事件だが、市内の公立中学で起きた事件だからまさに当事者である。  いじめ事件への対策は、ごく当たり前のことだ。調査のやり直しを命じること、情報の開示、第三者調査委員会の設置。しかしこれらを実行しようとする時に、大きな抵抗に遭う。抵抗するほうにも大義名分があって、主に「どこかへの配慮」なわけだが、それがもやもやとはっきりしない。  その勢力との攻防戦は描かれていない。というのも、そんなもやもやな勢力は、理を通せば後退するからだ。そんなことよりも、これから学校内のいじめをどのように少なくすればいいのか、ということだけにしか市長の興味はない。それは正しい。  途中で、市長の生い立ちの話が出てきて、よくある途中から「いい気な自伝」になるかと不安になったが、その生い立ちの話は、自身のいじめられ体験、および「いじめが蔓延するシステム」を読者にわかりやすく説明する機能も果たしているから、必要だった。小学三年生の頃、自分の知らない交換日記がグループ間で回され、ある日、こっそりノートを覗くとそこには「死ね」と書かれていた。「いじめられた経験が、いじめ問題に強い意志を持って取り組む礎」となっていると書く。  越市長だけでなく、誰もがこの問題を真面目に考えなければいけない。
新書の小径
週刊朝日 3/5
日本史の森をゆく史料が語るとっておきの42話
日本史の森をゆく史料が語るとっておきの42話
文庫や新書で、歴史ミニ知識が、わかりやすい短いストーリーでいっぱい収録されて、一冊読むと物知りになったような気にさせられるという本はけっこうある。この本も、つくりとしてはそうなのだが、中公新書であるからもっと専門的で、東京大学史料編纂所の学者が読み込んだ資料の中からとっておきを紹介している。一冊読み終わって「物知りになれた」というよりも「自分は歴史のことなど何もわかっていなかった……もっと歴史に対しての考えを深めねば……」という気持ちになる本だった。  といっても読みづらい、難解である、なんてことはない。一つの話がだいたい4、5ページで、まったく未知の世界のことでもするする読めてしまう。  最初に紹介されるのが「正倉院文書は宝の山」というものだ。そりゃ正倉院の文書なら宝だろうと思って読んでいくと、その総数は1万5000点とも1万点以上ともいわれて、「役所でいらなくなってゴミになった書類」の山なのだ。だが、執筆者は「選択を受けていない廃棄書類は、有象無象の情報を抱え込んでいる」もので、捨てられるものだからこそ知られたくない生の情報が見方によっては見えてくる、という。  当時の書類は下書きや写しのために「書類の裏側」が使われて、それぞれをまとめる時に「書類の表側」はバラバラになってしまい……などと言われると目がくらんでくる。バラバラになった大昔の書類を舐めるように読んで、何を着たか、何を食べたか、どんな病気をしたか、どんな名前で月にどのくらい働いたか、といったことまで見つけてしまう。学者はすごい、と感動する。  他にも、今に残る地味な歴史資料から選び出した地味な事件(無名な旗本家のお家騒動とか)の地味な面白さとか、イギリスの名誉革命(17世紀)を数カ月後に江戸幕府は知らされていた、いったいどういう経路で、というような話がいっぱい載っている。
新書の小径
週刊朝日 2/26
やきとりと日本人 屋台から星付きまで
やきとりと日本人 屋台から星付きまで
日本におけるやきとりの誕生とかやきとり屋の成り立ちなんて考えたこともなく、ただ「テキトーに行く外食の場」として「テキトーに食べてテキトーに満足」しているだけなのだが、こうやってやきとりの歴史、やきとりの文化を説き起こされると「なるほどなあ」と感心することがいっぱいある。著者はフリーランスの食記者、編集者である。  自分の子供時代を思い出すと、やきとりというと「豚レバーのタレ焼き」「豚シロのタレ焼き」で、とりと名乗りながら鳥じゃなかった。本書を読むと、うちの近所のやきとり屋が看板を偽ってたわけじゃないことがわかる。やきとり屋の歴史は、とりもつを串に刺してタレをつけ焼いたものを屋台で出していた→とりもつ串焼きから豚や牛の臓物串焼きとなった→やきとり、というものなのだ。やきとりには「豚や牛のモツを焼いたもの」もちゃんと含まれるのである。  これでわかるように、とにかく「串を使った至極簡単な食物」として、やきとりは出発したわけだ。いや、その前に、古代の神饌としての野鳥料理や、その後登場したキジやツル、カモ、そしてニワトリの料理、とくに元禄の頃の文書にある、鳥肉を串に刺し、塩をかけて焼き、酒入りの醤油にくぐらせたという「やきとりの原型」もあった。  そんな生まれのやきとりが、戦中戦後を経て現在どういうことになっているのか。高級やきとり屋やチェーン店、そして各種のやきとりネタの紹介、と内容は広がっていく。  広がりすぎて散漫な気もするが、別にそのへんはどうでもいい気になるのは、読みながら「ああやきとり食いたい……」と、近所の店のどこに行くか、この本が次々と紹介するお店のどこかに行ってみるためにまず場所を調べるか、とか思ってしまうからだろう。山口の長門市ではやきとりにガーリックパウダーをかけるらしい。なんか、すごくジャンクで美味しそうだ。いつか行くぞ。
新書の小径
週刊朝日 2/19
将軍と側近室 鳩巣の手紙を読む
将軍と側近室 鳩巣の手紙を読む
徳川六代将軍七代将軍というと、五代犬公方綱吉、八代暴れん坊将軍吉宗にはさまれて地味なことこの上ない。だが地味だろうがなんだろうが、その時代にはそれなりに大事や小事があり、細かく見ていくと尽きせぬ面白さがある。  本書に登場するのは、六代家宣と七代家継の側近であった間部詮房。そして家宣・家継に儒学者として仕えた新井白石。将軍側近というと、寵愛をカサに好きなことやるようなイメージがあるが、この二人にそんなことはない。七代家継は5歳で将軍になり8歳で死んでしまうのであるが、間部は、六代に託されたその幼い将軍を大切に、かつ厳しくお育てして、そして幼将軍からは「えち、えち」(越前守、というのが子供なんでうまく言えない)と慕われている。間部が出かけてると、そろそろ帰ってくるからって迎えに出るという幼い家継。可愛い。  何か事が起きた時、間部は白石に相談する。白石はビシッと、理知的すぎてゆるがない返答を申し上げ、間部も深く納得して、しかし老中たちに反発されないようにうまく根回しして事を収める。  そう、側近というものは、将軍個人に引き立てられた者である。幕府には決まった道を通ってその地位についた老中とか大老とかがいる。各種派閥のある儒学者たちもいる。そんな中で、側近という立場は、将軍がいなくなれば力を失うわけで、そのへんの構造がこの本読んで改めてわかって、なるほどいろいろめんどくさいだろうなあと思う。将軍に意思がなくて側近が悪辣だったりした場合はどうか。想像すると「水戸黄門」を思い起こしてしまう。  徳川六代七代八代の三代に仕えた儒学者の室鳩巣が手紙に残した「六代七代将軍と側近の有り様」をもとに、歴史学者が書いている。どんな時代でもちゃんとした人はちゃんとしてる、ということがわかってホッとする。まあ、どんな時代でもとんでもないやつはとんでもない、ということでもあるんだろうけれど。
新書の小径
週刊朝日 2/13
学校で教えてくれない音楽
学校で教えてくれない音楽
大友良英という人は『あまちゃん』の音楽をつくった人だ。やさしい声でニコニコしていて、感じ良さそうで、おまけに『あまちゃん』なので、親しみやすい作曲家なのかと思うとそうはいかない。相当聞きづらい音を発してたりする。言ってることも、けっこうキツかったりする。  この『学校で教えてくれない音楽』は、文字通り「学校の音楽の時間に教えてもらったのではないところで、音楽をやっている」人たちが、どのようにして音楽に向き合って音楽を創りだしているのか、が書かれている。  大友さんが、いろいろなミュージシャンと語る。大熊ワタル、上原なな江、さや(テニスコーツ)、Phew。たまたま私が知っている人たちもいて、どういう音なのかがわかっているだけに(けっこうすごい、というか今どきの流行りとは隔絶されたところにある音だったりする)、これ、知らない読者はどうなんだろうと面白半分で読んでいた。ところが後半、知的障がい者とその家族とアーティストによる即興音楽をしている沼田里衣との対話、そして地域の子供たちと集団で即興するワークショップをしている雨森信との対話があり、奏でられた音楽をまったく知らないのに、その聞いたことのない音楽が頭の中にわんわんと奏でられてとまらなくなった。そしてその音楽の実物を聞きたくてたまらなくなる。  文章に書かれた音楽だ。美しいとか、へんだとか、形容詞で表現されるのではない。障がいをもつ娘が弾くピアノを、もじもじしながら聞いているお父さん、というような情景の描写があり、それがさらに音を頭の中で鳴り響かせていく。  音楽の本は、音が聞こえなくてつまらないと思う方は、この本を読んでみて、「学校で教えてくれない音楽」を頭の中に溢れさせてみてほしい。それはすごく面白い体験だ。そして次に、本物の音に触れて衝撃を受けるのはもっと面白い体験だ。
新書の小径
週刊朝日 2/5
縁の切り方 絆と孤独を考える
縁の切り方 絆と孤独を考える
本書にはすごくタメになることが書いてあるのだが、いかにも冷笑しつつ水をぶっかけるような書き方に、「なんかこのヒト感じ悪いわ~」と本を閉じてしまう人が多いんではないか。でも、最後までぜひ読んでいただきたい。  まず、愛とか信頼とか、いわゆる「絆」がもてはやされてる現在の風潮に「いかがなものか」と疑義を呈している。私も「花は咲く」を歌ってる「絆」好きの人とは友達になれる気はしないし、絆という言葉なんて、そう言ってれば気がすむためのアリバイのような言葉なんじゃないかと思っている。著者の中川さんはネットニュース編集者で、中川さんと私は考えをほとんど同じくしている。  この本に書いてある「タメになる重要なこと」のひとつは借金の話だ。借りるほうではなく貸すほう。人に金を貸してくれと言われて、いやいやながら貸すという経験はあるだろう。中川さんは自分がお金を貸した八つの例を書いている。中川さんの場合、1840万円を貸して、戻ってきたのは1020万円である。株式投資をしている友人に、「元本は保証する」といわれて750万円を出資するが、友人はITバブルでスッカラカンになり、友人に「縁切るよ」と告げ「関係終了」となったことも書かれている。  投資金を貸すのは心が重い。踏み倒されたら金以上のものを失うし、返ってきても何かしこりが残る。できれば断りたい。なら断ればいいではないか。そうはいかない。借金とは「深い関係にある者同士にしか発生しないもの」だからだ。ここは本書でも太字になっている。ほんとにその通りで目からウロコがおちる。「断りづらい相手」だから言い訳に苦しんだり貸しちゃったりするのだ。そして中川さんは言う。「借金を申し込まれるような深い仲にならぬよう、浅い付き合いを心がける」  身も蓋もないが、絆の少ない人生のほうが長い目で見て人生を豊かにするし幸福である、ということです。
新書の小径
週刊朝日 1/29
この話題を考える
人生の後半戦こそ大冒険できる

人生の後半戦こそ大冒険できる

「人生100年時代」――。「20歳前後まで教育を受け、65歳まで働き、その後は引退して余生を楽しむ」といった3ステージの人生は、すでに過去のものになりつつあります。だからこそ、大人になってから人生後半戦にむけての第2エンジンに着火したい。AERAでは10月28日発売号(11月4日号)で特集しています。

50代からの挑戦
お金持ちの正体

お金持ちの正体

お金持ちが増えている。民間シンクタンクの調査では、資産が1億円以上の富裕層はこの10年以上、右肩上がりで、いまでは150万世帯に迫る勢いだ。いったいどんな人たちがお金持ちになっているのか。AERAでは10月21日発売号(10月28日号)で特集します。

お金持ちの正体
人気企業に強い大学

人気企業に強い大学

今春の各大学の就職状況が明らかになった。人口減による「売り手市場」が続く中、学生たちは大手企業にチャンスを見出し、安定志向が鮮明になった。「AERA10月21日号」では、2024年主要大学の大学生が、人気企業110社に就職した人数を表にまとめて掲載。官僚離れが進む東大生が選ぶ企業、理系女子が強い業界、人気企業の採用担当者インタビューまで最新の就職事情を余すことなくお伝えします。

就職に強い大学
作家のごちそう帖 悪食・鯨飲・甘食・粗食
作家のごちそう帖 悪食・鯨飲・甘食・粗食
いわゆる文豪と言われる人の、食に関してのうんちくを拾い出している。鴎外、漱石、熊楠、子規と始まって、三島由紀夫と向田邦子と開高健でシメる、という構成。各作家について、「こんな生まれでこんな育ちでこんな作家になった」という簡単な紹介から、その作家が食べ物に触れた文章の断片を取り出して、そこからその作家の人間性を浮き出させる。  そういう本ですが、はじめて読むのにぜんぜんはじめて感がない。文学者を食の面から語る本て、これまでに何冊も出てる。しかし「こういうの、前も読んだことある」と思っても、次に出たらまた買ってしまうのである、作家の食べ物本。なぜだろうと考えてみて、こういう作家の食本に出てくる食べ物が、どれもうまそうだからだ。  昔の文士が食べてるものは、当時としては高そうなものばっかだ。洋食、油っこいもの、味の濃いもの、甘い物。あとは酒と肴。志賀直哉はキャビア、ブルーチーズ、フォアグラ好きで、家族は「皆がコーンフレークを食べていた」そうだ。「洋食なら幾ら続いてもいい」とし、「豆腐なんか全然興味が無い」と発言している。白樺派というものに対して考えを改めなければと思ってしまう。  文士やその家族たちによる食べ物の描写がうまい。さらっと書いただけでその旨さがしみこんでくるような文章。鴎外の好物の「饅頭のお茶漬け」や、徹夜の際の常食だった熊楠の「あんパン」、スイーツ男子だった芥川龍之介の「最中」。向田邦子は「手の切れそうなとがった角がなくては、水羊羹といえないのです」と書いている。読んだこちらも食べたいという気持ちが高じる。  というわけで、この本もそうですが、文士モノの食い物本は、文学ではなくグルメ本として読むべきものであり、どう見ても今のグルメ本より食べ物の描写がうまいし、何回読んでも飽きない。今後もこういう本はまだまだ出るだろうし、また私も買うだろう。美味しそうだから。
新書の小径
週刊朝日 1/21
人とミルクの1万年
人とミルクの1万年
ミルク。たった三文字なのにもうこれだけで美味しそう。かつ温かく豊かなイメージが広がる。著者は帯広畜産大学の先生で、バター、クリーム、ヨーグルト、チーズなど、ミルク由来の食品の歴史を書いている。私が小学校の頃(約40年前)は「嫌いな食べ物といえばチーズ」って時代だった。そんな日本も、今や幼稚園児がブルーチーズを食べる時代(こないだファミレスで幼児が食べてた)だ。  と、私などは「乳製品は豊かさの象徴」みたいに思っていたけれど、乳製品の歴史というのは有史以来といっていいほど長く、発祥は「乾ききった過酷な土地」での「やっと入手した食品」「仕方なくできた保存食品」なのだった。「過酷な乳製品」がいっぱい紹介されている。  シリアのアラブ系牧畜民がつくる熟成させないチーズの写真が載っている。チーズというと、カビなどで熟成された西欧式のチーズが一般的だが、これは「ツタンカーメン王の墓から発掘された乾燥肉」みたいだ。実際「カチカチに乾燥させ長期保存する凝乳」で、これもまた一種のチーズである。現在も乳をこうして保存して食べなければ生きていけない地域と人がいるわけだ。主にアジアやアラブの、家畜からとった乳をいかに加工するかということに多くのページが割かれていて、それは私たちの知る乳製品の世界とはずいぶんちがうものである。  インドの濃縮乳マバ、なんて聞いただけですでに美味しそうである。大型の鍋に強火で終始加熱してつくるらしい。マバはインドの乳菓の土台材料で、マバに砂糖水を加えて熱し、そこにチョコレートやピスタチオで味付けするとバルフィーという乳菓になる。マバに砂糖や干しぶどうやナッツなどを入れて小さな円形にしたのがペダー。グラブ・ジャムーという乳菓もあり、強烈に甘く、「一口二口でお腹いっぱい感に包まれてしまう」という。乳製品ってのは、どういう環境でどうつくられても美味しそうだ。うっとり。
新書の小径
週刊朝日 1/15
“町内会”は義務ですか? コミュニティーと自由の実践
“町内会”は義務ですか? コミュニティーと自由の実践
読んでると「町内会なんか殲滅してしまえ」と思う。  著者の紙屋さんは、流れでなんとなく町内会長になり、その「町内会長体験談」をもとに、町内会の役割や利点、町内会の困ったところ、今後の町内会がどのように運営されていくのがいいのか、といったことを書いています。  紙屋さんは夫婦共働きで、夫である自分が育児や家事を担当している。大学時代は自治会活動などもしていて、こういう活動についてはある程度の意義も認めている。第一章では、町内会というものが、地域についてどのような役割を果たしているのかが丁寧に説明されていて、そのへんはまあ、ふつうに読み流す。  しかし二章以降になって、町内会長になった紙屋さんが蒙った面倒について具体的に書いてあるところが、もう異様に面白い。校区の行事や打ち合わせに動員要請がかかりすぎてそれ自体が負担なので、出なくていいと判断して欠席するとする。ちゃんと町内会の会員にも意思を確認して(それ自体がまためんどくさいのだが)欠席しても、町内会長会議みたいなところで吊るし上げを食らう。真ん中にいてほとんど恫喝のように吊るし上げをしてくるのは「話のわからないオヤジ」だ。紙屋さんは自治会長をやめる決心をする。このあたりが「町内会は殲滅しろ」と読みながら思うところだ。  しかし紙屋さんは良識の人なので殲滅論など唱えず、「ゆるい町内会組織」を提案するのだ。今の町内会では役を担う人はイヤイヤながらだ。役員になった人はやらない人に腹をたてる。やらない人は、やってる人の仕事を「やらなくてもいいような仕事」だと思っていて軽く見る。この悪循環ではいずれカタストロフがやってくる。それを避けるための「義務もない、やりたい人だけがやる組織」だ。全国、さっさとそうすればいいと思う。こんなアイデアはきっと今まで何回も出ているだろう。でもそうならない、というところに町内会のやっかいさがあるのだろう。
新書の小径
週刊朝日 1/7
実録・自衛隊パイロットたちが目撃したUFO 地球外生命は原発を見張っている
実録・自衛隊パイロットたちが目撃したUFO 地球外生命は原発を見張っている
本を読んでいて「これは!」と思うことが書いてあるとページの端を折るのだが、この本は途中でそれをやめてしまった。そんなことするのは意味がない。だって最初からほとんど全ページ折ってたからだ。  すごい本です。元自衛隊空将である佐藤さんら自衛官が体験したUFO話。とにかく、よく見るらしい、UFOを。多くの自衛隊パイロットが、空を飛んでいると「正体不明機」に遭遇するそうだ。そのスケッチも載っている。いわゆる「空飛ぶ円盤」。昔よく矢追純一の番組で出てきたアダムスキー型円盤そっくりの。それを子供が写生したような……。同じ頃、車に轢かれたらしい直径八十センチぐらいもある大クラゲが発見された! 海が近くないのに! 鷹やトンビがこれほど大きなクラゲをくわえて飛べるはずがない。その日はUFO目撃があったと夕刊に出ていた。ということは、これは映画などでよく見るクラゲ状の宇宙人の轢死体か、と。  さらに、自衛隊機の事故があった前の日に、同じ機体で飛んだパイロットに「早く帰れ」と何者かが囁いた。そのとき基地方向に非常に明るい光があった。彼はその囁きに従ったことで助かった。どうもそれはUFOが教えてくれたようである、と。超悪天候でフライトを敢行した時、横田基地の上空だけ明るくなって有視界飛行ができた。これはUFOのおかげではないか、と。 『かぐや姫』は日本に伝わる天女伝説の原型ではないか、そして天女とは宇宙人ではないか。西洋では宇宙人というとクラゲの化け物みたいに描かれるが、日本では美しい衣をまとった美女なのである。「日本人は、なんと想像力豊かな優しい民族なのでしょうか」と書く。  自衛隊員でもUFOが見える人と見えない人に分かれていて、見える人は夢にも出てくるという。まあ、ともかく、読んでいて面白い。そして日本はたいへん平和で良いなという気持ちがわきあがる。
新書の小径
週刊朝日 12/18
カフェと日本人
カフェと日本人
喫茶店は「茶を喫する店」、なのにそれは茶の店を意味しない。コーヒーの店だ。経済ジャーナリストによる本書によると、江戸時代、長崎出島で数少ない日本人がコーヒーを飲んだことはあったようだが、「焦げくさくして味ふるに堪ず」とか言ったらしい。でもその後、黒船来襲とともに日本にコーヒーがどんどん広まる。  日本で最初の喫茶店は明治21年、東京の上野に出来たそうだ。店の名は「可否茶館(かひさかん)」。店内にはトランプやクリケット、ビリヤードが置かれ、シャワー室まで備えられていた。昔の小説にも出てくる「カフェー・プランタン」とか「カフェー・パウリスタ」などの来歴も興味深い。パウリスタの一号店は大阪の箕面(みのお)にあった。もみじの天ぷらとか今でも道端で売っている箕面に一号店。その理由を聞きたかった(たいした理由じゃなかろうが)。パウリスタは銀座本店を筆頭に全国に店を広げたことがあり、「誰もが親しめる喫茶店の元祖」と呼ばれているという。  当然のことながら、当時のコーヒーは「舶来の文化」でありオシャレなものであった。その後、戦争でほとんど飲めなくなり、戦後に喫茶店文化が花開き、その後ドトールやスターバックスが登場して新しい局面に、というようなことが書いてある。「なるほどねえ」と思いながら読む。だけど、これはナンシー関も書いていたけど、読んでも読んでも「どうしてそんなにコーヒー飲むことが日本人に広まったんだ」ということがわからないのである。  女給が妍(けん)を競った時代の「カフェー」や名曲喫茶やジャズ喫茶やゴーゴー喫茶、さらにはノーパン喫茶やメイド喫茶のことまで書かれている。それを読んでいても「性的パワーでコーヒーに人を呼ぶ」のではなくて「コーヒーは基本、そこに性的なものをひきずりこんでさらに楽しむ」ように見えるのである。とにかく「コーヒーを飲む、飲ませること」の盤石さはすごい。日本はコメ文化じゃなくてコーヒー豆文化なのか。
新書の小径
週刊朝日 12/11
「謎」の進学校麻布の教え
「謎」の進学校麻布の教え
麻布高校といえば、高校野球の東京大会で、相手チームに「落ちこぼれ」「悔しかったら東大入ってみろ」と野次ったことで有名である。麻布、開成、武蔵といえば「有名男子進学校御三家」で、中でも麻布は何しろ立地条件がいいし、あか抜けてるような印象もある。今さらなんの謎の解明なのか、と思って読んでみたところ、たいした謎はなかった。「麻布とはどういう学校か」ということを、在校生、教師、卒業生などにつっこんで聞いた、というものだった。有名人では与謝野馨、山下洋輔、橋本大二郎、中条省平らが登場している。  文化祭が面白いらしい。そういえば開成は運動会がすごいとか言ってた気がする。そのへんが校風の差か。麻布の文化祭は、学校創設以来、大切にしてきている「自主・自立」の精神の象徴なのらしい。ノンフィクションライターの著者がインタビューした文化祭実行委員長のA君も、会計局長のB君も髪を染めている。服装も自由、髪の毛も染めてオッケーなのだ。運営は当日の仕切りのみならず、予算管理まで、生徒がする。Tシャツなど文化祭グッズを売って、毎年黒字なのだという。  基本的に「デキる学校の余裕」がぷんぷんに感じられる。校則もない、大学進学にも拘らない、と言われても。そうまで言うなら大学進学禁止、とかまでやってくれよと言いたくなるが、きっと「いや、進学がいいとか悪いとかではなく、あくまでも生徒の自主性に任せ」とか答えるんだろうなあ。それでも、こういう層から良心的なリベラルな人も出てくるだろうからガマンしなくてはならないとも思うものです。  でも、それと同時に、学校時代なんて、どんな教育を受けてようが「その時代を懐かしむ」ような人間はロクなもんじゃないと思う。学校なんて「思い出したくない時間」になるのだから、やっぱり注意深く学校を選んだほうがいい。この本はそのためにも読んでおくべきかもしれない。
新書の小径
週刊朝日 12/4
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