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松任谷由実「数字的最盛期をああだこうだ言った人たちは、みんな滅びた(笑)」
松任谷由実「数字的最盛期をああだこうだ言った人たちは、みんな滅びた(笑)」
松任谷由実(まつとうやゆみ)/ 1954年、東京都出身。72年、荒井由実として「返事はいらない」でデビュー。翌年、ファーストアルバム「ひこうき雲」をリリースし、注目を集める。以降も、「やさしさに包まれたなら」(74年)、「ルージュの伝言」(75年)、「春よ、来い」(94年)などのヒット曲を次々生み出す。そのほか、本名や呉田軽穂名義で他のアーティストへ作品提供も行っている。2022年、50周年記念ベストアルバム「ユーミン万歳!」をリリースした。(撮影/写真映像部・加藤夏子)  若い世代の「荒井由実」人気を中心に、6度目のブームとなっている松任谷由実さん。  昨年発売した新曲「Call me back」では、AIで再現した「荒井由実」とのデュエットを披露するなど、さまざまな試みも。作家・林真理子さんとの対談では、自身の50周年を語るとともに、新たな挑戦についても語ってくれました。さらに大学業務で多忙をきわめるマリコ理事長に向け、クリエーター・ユーミンからも鋭い質問が──。 *  *  * 林:この50周年、世間って思ってたよりすごかった、ということあります? 松任谷:うん。「そこまで浸透してたのかな」と思って。 林:若い人たちは、ジブリなんかでよく知ってるんですよね。 松任谷:そう。ありがたいよね。 林:世代を超えて。 松任谷:世代を超えてといえば、ストリーミング(ネットに接続してダウンロードしながら動画や音楽を再生する方法)になったことね。何がいつリリースされたかが問題じゃなくて、出会ったものが新曲。だから多作でよかったと思う。何かに出会ってくれるから。 林:いまの若い人たち、どのへんの曲が好きだと言ってます? 松任谷:いまは「荒井由実」が中心かもしれない。70年代好きが多いしね。ただ、70年代終わりには、今評価されているCity popは既にやっていたけどね。林さんが言う「若い人たち」って40代でしょ? 林:20代かな。女子大生なんかにもユーミンファンがすごく多くて、「カッコいい」とか「ステキ」とかこのあいだもテレビで言ってたから、「そうだろ、そうだろ」って私なんかうれしくなっちゃった。 松任谷:うれしくなってくれるのがうれしい、林さんとかが。 林:「あんたたちの世代でこんな人いる?」みたいな感じ。 松任谷:林さんがそんなふうに言ってくれるから、こうして対談にもやってくる(笑)。バブルのころ踊らされてたのに、私をまるで戦犯のように「あれは一体何だったのよ」みたいな感じの女性記者もいるよ。そのときの自分を恥じてるかのような人たち。 林:そんな人たちがいるなんて。処刑だよ、処刑(笑)。 松任谷:アハハ(笑)。踊ったのは私じゃなくて、自分だもんね。 林:そういう人たちは消えていく運命だよ。 松任谷:そう思う。数字的最盛期のころのことをああだこうだ言った人たちは、みんな滅びてる(笑)。だって嫉妬から言ってるんだもん。私に嫉妬したら疲れるよ。ボールを壁打ちしてるようなもんで。だって、はじめから違うんだもん、存在が。偉そうに言ってるわけじゃなくて、自分の中から出てきてるものをやってるだけだから、批判の対象になり得ない。そんなところに食いついても、自分のエネルギーを無駄にするだけ。最盛期、第4次ブームぐらいのとき、ほんと風当たりが強かったよ。80年代後半から90年代。 林:このごろいろいろなものの形態がどんどん変わってきたし、CDも本も売れないし、テレビだって視聴率10%超えたら御の字じゃないですか。世の中がそんなふうに推移してるんだから……。 松任谷:わかりやすく言っちゃえば、物から事へ移ったりとか、さっき言ったように3次元的なことではなく、5次元を目指して、そういう記憶を自分の中に蓄積するというか。 林:ユーミンって年をとらないし、体力も落ちてないでしょう? 松任谷:落ちてはいるけれど、すぐ自分にアラームが鳴るから、反応が早いとは思う。「ヤバいな」ってことにすごく早く気づくので、自分と毎日向き合ってる。トレーニングもしてるし。 林:矢沢の永ちゃんが「ロックシンガーはフォルムだからね」って言ったけど、確かにそうですよね。パッとライトが当たったときに、太ったおばさんだったらまずいもんね。 松任谷:そうね。特にいまAIと共演してると、AIとの親和性が高くないとね。私だからアバターをつくれると思う。もっとアバターが一般的になってくれば、いろんな形のアバターが出てきていいけれど、いまは差し当たって最先端に見せるためにも、自分の(体の)ラインをちゃんとしておかないとね。 林:すごいと思います。「こういうストリートファッションするには、体形がきちっとしてないと着れないよ」って何かでおっしゃってるのを聞いて、ため息のみですよ。 松任谷:ブランドだって、一発でわかるようなのを着てると老けるよね。 林:モノグラムがついたやつですね。昔、ユーミンがアライアを着てて、世の中の女の子がアライアに憧れて、私も南青山のフロムファーストビルに見に行って、「これがユーミンが着てるアライアというものか」と思ったことがありますよ。 松任谷:「布の彫刻師」と言われたね。 林:おしゃれとか、いつも挑戦してるところは変わってませんよね。 松任谷:好きだからね、洋服。 林:この50年間、たまりにたまったお洋服はどうしてるんですか。 松任谷:たまる一方なんですよ。 林:メルカリに出そうなんて思わない?(笑) 松任谷:アハハ。あんまり思わない。愛着がある。それぞれに思い入れが強いから整理できないし、体形も変わってないから役立つの。頭の中がインデックスになっていて、「そういえばあれがあったな」って。きょう着てるのなんて、20年前にミラノで半分つくったグッチのスーツなんだけど、最近「荒井由実」が何かとフィーチャーされることがあって、荒井由実時代にパンツスーツをよく着てたんですよ。だからスーツ率高いです、このごろ。 林:いまに「ユーミン博物館」ができたときに、ユーミンのお洋服がダーッと並んで……。 松任谷:博物館はつくらない。そういう3次元的なものは意味がない。絶対なくなる。石原裕次郎記念館もなくなったし。ハコモノはダメ。だから歌をやっててよかったの。人の心に入り込めば、死ぬまで持っていけるんだもん。どこにでも運べるし、風のように街を漂ってるし。 林:「私が死んでも私の歌は残ってほしい。その願いがかなえられつつある」ってこのあいだテレビで言ってましたよね。 松任谷:そうね。まあ、一里塚ぐらいかな(笑)。 林:この先やりたいことがいっぱいあるんでしょう? 松任谷:続けることが夢ですね。それは自分のモチベーションにかかっている。もしやめても誰からも文句言われないし、雇用も十分創出してきたし、あとは自分自身がクリエーターとしてどのぐらいやっていけるかだけ。だから自分の問題。 林:このごろ「コンサートやめる」って言う人がいるけど、ユーミンはそんなことないですよね。 松任谷:ま、いつかはやめるときがあるけれど、わからないようにやめる、私は。 林:コンサートのとき、踊るの大変になってきました? 松任谷:そんなことない。そのときの自分に合ったしつらえになってるし、踊りだって変化してきてるしね。エッセンスさえ自分で取り込めればいい。話は変わるけど、林さん、日大の理事長に着任されるとお忙しいでしょう? 林:すごく忙しい。朝から晩までですよ。みんな「どうせ週に3回行くぐらいだろ」とか思ってるけど、私、毎日行ってますよ。まあ、たまに自分のスケジュールが入りますが。 松任谷:でも、ちょっとおもしろそうだな、というところから入ったんじゃないの? 林:かなりおもしろそうだと思った。だから一生懸命やってるし、けっこう楽しい。 松任谷:痛いところ突くかもしれないけれど、要職に就いて書くということから遠ざかってしまうと、危機感、感じたりするでしょう。 林:危機感、感じる。私は職人みたいな作家で、常に肩慣らしをしていかないと書けないから。このあいだ短編を二つ書いたけど、ほかの人が連載してるのを見て「いいなあ」と思うし、悔しいから、これからは理事長室で書けるように態勢を整えようと思ってる。そうじゃないと困っちゃう。私だって1冊ぐらい残して死にたいわよ。 松任谷:いや、残るものはいっぱいあると思うけど。 林:残らない、残らない。これから残るものをつくらないと。 松任谷:文学にしろ映画にしろ接するのが大変じゃない。そういう意味ではポップスって有利だなと思う。口ずさめるんだもん。小説を書くのって、体力もモチベーションもものすごくいると思う。 松任谷由実さん(左)と林真理子さん(撮影/写真映像部・加藤夏子) 林:ところで、プライベートのこともちょっとお聞きしたいけど、外食に行ったり飲みに行ったりすることある? 松任谷:あんまりない。早寝早起きになっちゃってるし。 林:私は、そうは言っても毎日外食のお誘いがある。 松任谷:すごい体力よね、林さん。 林:すごくある。それで夫に怒られ、夫とバトルする体力も(笑)。 松任谷:ほんとは怒ってないんじゃない? 林さんのご主人。 林:怒ってるよ。松任谷正隆さんみたいなやさしいご主人、ほんとにうらやましい。 松任谷:とんでもないですよ。やさしそうに見えるけれど真逆。 林:そうなの? 信じられな~い。そこをもっとお聞きしたいけど、あー残念。時間が来ちゃった(笑)。お体、気をつけてくださいね。私たちの人生の指標だから。「ユーミンがこれだけ頑張ってるんだから私たちも頑張ろう」と思って頑張ってるんだもん。 松任谷:ほんと? ありがとう。 (構成/本誌・唐澤俊介 編集協力/一木俊雄)※週刊朝日  2023年1月27日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2023/01/21 11:30
ミッツ・マングローブ「日本最強夫人・原坊の威力」
ミッツ・マングローブ ミッツ・マングローブ
ミッツ・マングローブ「日本最強夫人・原坊の威力」
 ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、「原由子さん」について。 *  *  *  近頃は奥さんのことを「嫁」や「家内」などと呼ぶと各方面からお叱りを受けるそうです。ゲイの世界でも一時期、自分の彼氏を「ヨメ・ダンナ呼び」するのが流行っていましたが、今も昔も私には関係のない話ではあります。  確かに「嫁」は、家単位における立場を示す言葉であり、嫁いだ先の親が「我が家の嫁」と呼ぶのは間違っていませんが、夫が自分の配偶者を指す時は「妻」が正しい日本語です。いずれにしても、女性特有の呼称(看護婦・スチュワーデス・保母など)がどんどん使えなくなる中、「嫁」もその対象になりつつある流れは理解できなくもありませんが、代わりに「パートナー」だの「ワイフ」だの、片仮名言葉で誤魔化すぐらいなら、堂々と自分たちの言語を使い継いでいった方が文化的にも民度的にも良いと思うのは私だけでしょうか。  一方で、人の「妻」を第三者の側から表す「夫人」という言葉は、特に何の規制や抗議もない状態で今も使われています。「夫人」にはどこか「妻の座を得た誉れ」的な響きがあるため、女性蔑視と取られる機会が少ないのかもしれません。だからなのか日本人は「夫人」という言葉に滅法弱い印象があります。「○○夫人」と紹介された途端、自動的に地位や格をその人に見出しがちです。  現代日本において、「夫人エレメント」の高さを問われたら、やはりデヴィ夫人の右に出る人はいないでしょう。貴族・華族階級が廃止されて以降、日本における「夫人」の水準は彼女の存在によって保たれてきたと言えます。同時に「夫人」の概念を、極めて曖昧で幻想的にしたのも彼女かもしれません。  歴代のファーストレディーたちを「夫人呼び」する慣習も、「夫人」の格を高めている大きな要素です。中でも「昭恵夫人」は、「夫人・オブ・総理夫人」として後世にも語り継がれていくことでしょう。ほかにも、今は亡き野村克也さんの「沙知代夫人」、落合博満さんの「信子夫人」、石原裕次郎さんの「まき子夫人」、坂本九さんの「由紀子夫人」などは、夫人としてのプロフェッショナリズムを感じさせてくれる人たちです。最近だと工藤静香さんを敢えて「木村拓哉夫人」と呼んだりするのにも、一種の「萌え」を覚えます。  そんなめくるめく「夫人の世界」。個人的にもっとも「夫人」の威厳と貫目を備えていると思うのは、他でもない桑田佳祐夫人である原由子さんです。彼女ほどさりげなく、しかし盤石に「夫人」であり続けている人を私は知りません。原さんの奥ゆかしさや愛らしさを見るにつけ、「夫人こそがこの世でいちばん強い生き物なのだ」と痛感させられます。  先日、原由子さんのソロアルバムが発売されました。その名も『婦人の肖像』。ここで使われている「婦人」とは、成人した女性を意味する言葉ですが、奇遇にも「婦人」と「夫人」は同音異義語。サウンドだけなら間違いなく「夫人の肖像」と変換してしまう自信があります。これぞ「原坊の威力」です。  そもそも日本随一の「夫人」が、「坊」と呼ばれていること自体すごい話だと思いませんか?『婦人の肖像』。買ったものの怖くてまだ開封できずにいます。 ミッツ・マングローブ/1975年、横浜市生まれ。慶應義塾大学卒業後、英国留学を経て2000年にドラァグクイーンとしてデビュー。現在「スポーツ酒場~語り亭~」「5時に夢中!」などのテレビ番組に出演中。音楽ユニット「星屑スキャット」としても活動する※週刊朝日  2022年11月11日号
ミッツ・マングローブ
週刊朝日 2022/11/09 16:00
タレントも行きつけ “ちょうどいい”オーガニックスーパー『ビオセボン』
山田美保子 山田美保子
タレントも行きつけ “ちょうどいい”オーガニックスーパー『ビオセボン』
山田美保子・放送作家、コラムニスト  放送作家でコラムニストの山田美保子氏が楽屋の流行(はや)りモノを紹介する。今回は、スーパーマーケット『ビオセボン』を取り上げる。 *  *  *  昔から都心には「芸能人御用達」といわれるスーパーマーケットがある。  古くは『青山ユアーズ』、1964年、青山に開店した輸入食品や雑貨が買える元祖・深夜スーパーだ。石原裕次郎さんや田宮二郎さん、岡田真澄さんら、人気だけでなく、ライフスタイルが洒落ていると評判だった“スターさん”の行きつけだった。手形や足形、サインなどが並んでいたことでも知られ、現在、石版は『本多劇場』に寄贈されている。加山雄三さん主演『海の若大将』のヒロイン、星由里子さんの勤務先としても知られるが、1982年、閉店した。  同じ青山通り沿いでは『紀ノ国屋』や『ナチュラルハウス』。広尾駅近くの『明治屋』や『ナショナル麻布』なども、張っていれば誰かしら有名人が撮れてしまいそうな御用達スーパーである。  だが、こうした老舗を差し置き、近年、トークバラエティーなどでタレントの多くが「行きつけ」として挙げるスーパーが『ビオセボン』である。  フランス発のオーガニックスーパーマーケット。日本初上陸は2016年の麻布十番店。現在は、東京、神奈川の店舗とオンラインストアを展開している。 https://www.bio-c-bon.jp>フランス発のオーガニック(フランス語だとビオ)スーパーマーケット「ビオセボン」。新鮮な生鮮食品と日常使いできる価格が人気を呼び、フランスを中心にヨーロッパで140店舗以上を展開。2016年に日本初上陸。第1号店は東京・麻布十番に開設。「オーガニックっていいね」の気持ちをもっと身近に感じられる店づくりをモットーに店舗数を拡大している。現在、店舗は東京都、神奈川県のみ。全国発送のオンラインストアを展開中。店舗検索、問い合わせ https://www.bio-c-bon.jp  オーガニックは和訳すると「有機」。自然の力を生かして生産された農林水産物や加工方法を指す。よって、いわゆる意識高い系モデルや女性タレントに信奉者が多く、客層は前述の『ナチュラルハウス』に近い。 “意識高い”は“敷居が高い”店のようにも思えるが、『ビオセボン』は、「普段使いできる幅広いオーガニック商品の品揃え」を目指し、「『良い』だけでなく、『おいしい』オーガニック商品提供」が目標ゆえ、タレントが番組で行きつけとして紹介しやすい、ちょうどいいオーガニック系スーパーなのである。  そして、オーガニックのパスタソースや、オーガニックワイン、「バルク」と呼ばれる量り売りコーナーのナッツやドライフルーツ、グラノーラなどを番組で紹介したら、視聴者から「オシャレ」と思われること間違いなし。昨年9月、木村拓哉さんが『家事ヤロウ!!!』(テレビ朝日系)で愛用品として紹介した『プロサン』の「アラビアータ」は、『ビオセボン』のオンラインストアでよく売れたとか。  街で同店の紙袋を持っている人を見たことがない? それはエコバッグ率の高さゆえだ。やはり意識高い系なので……。 山田美保子(やまだ・みほこ)/1957年生まれ。放送作家。コラムニスト。「踊る!さんま御殿!!」などテレビ番組の構成や雑誌の連載多数。TBS系「サンデー・ジャポン」などのコメンテーターやマーケティングアドバイザーも務める※週刊朝日  2022年9月9日号
山田美保子
週刊朝日 2022/09/04 11:30
デビュー50周年 ユーミン18歳の衝撃「時代の先を少し行き過ぎていた」
鮎川哲也 鮎川哲也
デビュー50周年 ユーミン18歳の衝撃「時代の先を少し行き過ぎていた」
リリースするアルバムは常に話題になり、ミリオンセラーを獲得するものも多かった “ユーミン”こと松任谷由実さん(68)が、1972年7月に「返事はいらない/空と海の輝きに向けて」でデビューして以来、ことしで50周年。ミュージックシーンの第一線で輝き続け、音楽界だけでなく、社会や文化にも大きな影響を与えてきた。 「初めて会ったときは本当に驚きましたね。そのころのシンガー・ソングライターは、Tシャツにジーンズというスタイルでしたから、そういう人とは全く違ういでたちでした。当時創刊されたファッション雑誌『an・an』(70年創刊)から飛び出してきたようで、とってもファッショナブルなんです。時代の先端というより、少し行き過ぎている感じもしましたけどね。でも、話をしておもしろい人だなと思いました」  荒井由実さん(当時)との初めての出会いについてそう話すのは、音楽評論家で尚美学園大学副学長の富澤一誠さんである。72年のことで、ユーミンは当時18歳。多摩美術大学で日本画を専攻している大学生であった。  富澤さんは東京大学を中退して、あちこちの音楽雑誌や週刊誌に音楽評論を執筆していた。とくに吉田拓郎をはじめとし音楽業界を席巻していたフォークの神々について、音楽論だけでなく、歌を作り出す人間を描き出し、ミュージックシーンに影響を与えていた。  そんな富澤さんに、アルファミュージックという音楽出版社の社長である村井邦彦さんが「荒井由実」を売り出したいが、何かいい方法はないかと相談を持ちかけ、キャッチコピーを考えてくれとお願いした。  デモテープを渡された富澤さんは、その場でさっそく聴いて、衝撃を受けた。「いいですね。この子は」と思わず感想が口から出てしまった。 「当時、シンガー・ソングライターといえば五輪真弓さんでした。その前が加藤登紀子さん、森山良子さんで、自分のことを歌っていて、自己表現でした。ユーミンはぜんぜん違って、イメージの世界で物語を紡ぎ出して歌うのです。別の言い方をすれば印象派のモネやシスレーのように絵画的です。歌を聴くと風景が浮かんでくるんですね」  と当時のフォークソングの中にはまらない大きな可能性を感じたという。  こんな音楽を作る人はどんな人だろう。とにかく会ってみたいとすぐに富澤さんは村井さんにお願いし、先述の出会いとなった。  キャッチコピーといってもこれまでにないセンスを持った歌手なので思案した。何かヒントはないかとなんとなく日本文学史のページを繰っていたところ、「新感覚派」という言葉を見つけた。「新感覚派」とは、横光利一、川端康成ら言語感覚の新しい作家を指した言葉。ユーミンも既成の音楽を打ち破る可能性があったので、「新感覚派ミュージック」とした。  富澤さんによると、 「それまでの音楽が『好きです』と何十回と繰り返し言っていたのが、たった一回の『キス』でその気持ちを伝えるようなものなのです」  富澤さんが生み出した新感覚派ミュージックという言葉が後にニューミュージックに変化していく。  キャッチコピーも決まり、アルバム「ひこうき雲」で“再デビュー”となるはずであったが、大きな壁が待っていた。  当時は、レコード会社がサンプル盤を全国のレコード店に送り、それを聴いたレコード店から注文を受けていたが、その反応がよくなかった。発売が延期になってしまった。 「あまりに新しすぎてお店の人もついてこられなかったんじゃないでしょうかね」  と富澤さんは振り返る。 「ひこうき雲」は73年11月に発売されたが当時は3千枚ほどしか売れなかったと言われている。 主な楽曲の発売時期など(週刊朝日 2022年6月24日号より) ■ムーブメントを起こすユーミン 「『ひこうき雲』が出た翌年の74年は叙情派フォーク大盛況でした。『精霊流し』『岬めぐり』『夕暮れ時はさびしそう』などが音楽シーンを賑わしていました。ユーミンの音楽はそれらとは全く別物だったのです」  セールスは今ひとつだったが、音楽業界に大きな話題を巻き起こした。 「なにしろ物の見方、表現する世界が違った。小さな石鹸をカタカタ鳴らしながら、横丁の風呂屋に行っていたのが、バスルームにルージュの伝言を書いて、あなたのママに会いに行くのですからね。いわば四畳半からワンルームマンションに変わっていくような感じですね。トレンディードラマが世に出る前からユーミンは、こういう世界を描きだしていたのです」  フォークシンガーは、生き様を歌うのに対して、ユーミンはライフスタイルを提唱する。ちょっと手を伸ばせば届くかもしれないと思わせる、一歩先行くおしゃれな生活を提唱し、そのため聴く側は常にユーミンを追いかけていくのだ。 「私が目指しているのはね、人とはちょっと違うカッコいい生き方をしていると思っている人たちの一歩先を行くことかな。音楽だけじゃなくって、生き方すべてをひっくるめてね」  ユーミンは富澤さんのインタビューで、かつてこう答えていた。 「だからユーミンは時代をつかむ、まさにトレンドゲッターと言われるようになりました」  当初は苦戦したものの、75年になると状況は一変する。「あの日にかえりたい」をリリースするとオリコンチャートで1位を獲得した。その後の活躍は言うまでもない。常に最前線を走り、社会のムーブメントを生み出してきたのだ。 「ユーミンが長く支持されるのは、“荒井由実時代”で楽曲を極め、“松任谷由実時代”になると楽曲だけでなく、コンサートで大掛かりなセットを組みエンターテイナーとして存在感を高めたことでしょうね。僕も何度もコンサートに行きましたが、象が出たり、龍が出たり、さらにアーティスティックスイミングとコラボと、驚かされてばかりでした。社会に衝撃を与えたのもユーミンがずっと注目される理由です」(富澤さん)  ユーミンの楽曲に魅せられて、長年ファンを続ける人も少なくない。インターネットでユーミンのファンサイト「ヒデの遊民なダイアリー」を運営しているヒデさんもその一人だ。リリースされたレコード、CDはすべて入手し、87年の武道館以来ほぼすべてのコンサートにも足を運んでいる熱狂的なファンである。ヒデさんにとって宝物になっている出来事がある。 「苗場のコンサートでは観客からリクエストを募るのですが、僕が手を挙げたら指名されたんです。ステージに上げてもらってユーミンが歌うのを聴くんです。演奏後、少し話もしました。2002年2月22日、『SURF&SNOW in Naeba Vol.22』のことでした」と、ヒデさんは興奮気味に話す。 「おこがましいのですが、同世代の私にとって、ともに人生を歩いてきた感じです。ユーミンには感謝しかないです」  ゆかりの地に出かけるファンも多い。なかでも聖地と言われるのが74年に発表された「海を見ていた午後」に出てくる「山手のドルフィン」だ。 「今も学生時代にユーミンを聴いていた世代の方々が多くいらっしゃいます。久しぶりに来たという方や、いつか行きたいと思って、やっと来ることができたという方もいます」 「カフェ&レストラン ドルフィン」の外観 ■愛され続ける時代のカリスマ  開店50年を超える「カフェ&レストラン ドルフィン」のスタッフの吉澤好久さんはそう話す。現在は3代目のオーナーに引き継がれ、木造平屋の店舗は98年に海側が大きなガラス窓の2階建てコンクリートの建物になった。 「歌詞に出てくるソーダ水は、メニューになかったのですが、『ソーダ水ありますか?』とよく聞かれるので、今のオーナーになって、『ドルフィンソーダ』をメニューに加えました」と吉澤さん。  平屋だったころの記憶が残る人は、その変化に驚くが、今は大きな窓から海と貨物船が行き交う景色も見える。 ソーダ水の中をゆく船 「ユーミンが横浜でコンサートをするときは多くのファンがいらっしゃいます。ファンにお話を聞くと、『海を見ていた午後』は横浜のコンサートでしか聴けないとも話していました」  そう吉澤さんは嬉しそうに話す。 「山手のドルフィン」からは行き交う船と、夜はコンビナートの瞬く光が見える 「ユーミンファンでなくても、この景色、夜景はとくに奇麗なので、きっと楽しめるはずです。自分もユーミンファンなので、ここで働けることを誇りに思います」  ミュージックシーンで常にトップを走るユーミンは、駒澤大学陸上部を応援しているのを公言している。21年に駒澤大学が箱根駅伝で優勝した際、「駒澤ー! ヤッターッ!!」とツイッターで喜びを表した。 「元々は松任谷正隆さんが、うちの学生が練習で走る姿を見て、ひそかに応援してくださっていたようです。うちの大学が箱根駅伝で優勝したとき、正隆さんのラジオ番組に出演したことがきっかけで親しくさせていただくようになりました」  と駒澤大学陸上部監督の大八木弘明さんは話す。正隆さんの応援の影響もあり、ユーミンも駒澤大学を応援するようになったそうだ。  今では毎年12月に、シュークリーム100個を持って激励に来てくれるそうだ。 「陸上部の寮がユーミンの家により近くになったので、夫婦で歩いていらっしゃいます。12月になるとユーミンが来るって、部員たちはみんなドキドキですよ」と大八木さん。  大八木さんも選手時代に落ち込んだり、スランプになったりしたときユーミンの音楽を聴き、勇気づけられたことがあった。妻がユーミンの大ファンで先日もコンサートに足を運んだそうだ。 「今はご本人からも勇気をもらえ、こんなに心強い味方はいないですね。いつもトップを走ってきたユーミンに力をもらって、今度の箱根ではトップを走りたいと思います」  ユーミンはデビュー以来、ファンに夢と希望を与え続けてきた。前出の富澤さんは、ユーミンに取って代わるミュージシャンはいなかったし、これからも出てこないだろうと強調する。そしてこう話した。 「昔の力道山、石原裕次郎、吉田拓郎、そしてユーミンと時代のヒーローでありつつ、それを飛び抜けた存在でもありますね。時代を超えて音楽もその人そのものも、愛されていますから。これからも“エージフリーミュージック”のスーパースターであり、時代のカリスマであり続けるでしょうね」 (本誌・鮎川哲也)※週刊朝日  2022年6月24日号
週刊朝日 2022/06/18 08:00
笑福亭鶴瓶が語る「大阪人のたしなみ」一回ウケたらからんでこない?
笑福亭鶴瓶が語る「大阪人のたしなみ」一回ウケたらからんでこない?
笑福亭鶴瓶 [撮影/写真部・高橋奈緒、ヘアメイク/上田実穂(be-m)、スタイリング/上野真紀]  数多くのバラエティー番組で活躍するほか、俳優としても人気を博す笑福亭鶴瓶さん。脚本家・中園ミホさんの縁をきっかけに、作家・林真理子さんと鼎談が行なわれることに。数々の女優さんとのエピソードや「西郷どん」の裏話を明かしてくれました。 【笑福亭鶴瓶「縁は努力」 引き寄せる力で樹木希林さんが自宅にやってきた!?】より続く *  *  * 林:今度、NHKのドラマ(BSプレミアム・BS4K「しずかちゃんとパパ」)に出られるとか? 鶴瓶:そう。手話やるんですよ。 中園:聾(ろう)者のお父さんの役をなさるそうです。 林:楽しみです。鶴瓶さんは俳優としても数々の映画賞をおとりになって、私、「ディア・ドクター」とか吉永小百合さんと共演した「おとうと」とか、中居(正広)君と共演した「私は貝になりたい」も拝見しました。吉永小百合さんが絶賛してましたよね。「鶴瓶さんは俳優さんとしても素晴らしい」って。 鶴瓶:運がええんでしょうね。「ディア・ドクター」で八千草薫さんに出会ったりね。八千草さんは心の恋人役やったんです。そんなん考えられへん。 林:大竹しのぶさんと映画「後妻業の女」でああいう役をやられたのも、すごいことですよね。 鶴瓶:しのぶさんと仲ええから、「なんでこの役、受けたのよ」「こんな役と思てへんがな」言うて。巨根の絶倫男の役で、しのぶさんとからむシーンがあったでしょう。しのぶさん、「どうしよう」言うから、「シーツの中で、アカ~ン、アカ~ン言うとき」言うて。僕、何もしてないんやけど、「アカ~ン、アカ~ン」言うから、ものすごいイヤラシイことしてるみたいで(笑)。 林:アハハハ。 鶴瓶:「彦八まつり」という大阪の落語家の集まりがあって、司会してたら、大阪のおばちゃんが「映画見てきたけど、ほんまに大きいんか」って(笑)。 林:大阪のおばちゃん、一人でオチつけるからすごいですね。 鶴瓶:おばちゃんだけやなしに、大阪人は全部そうですね。僕の落語会の前に「鶴瓶噺」いうて30分ぐらいしゃべるんですけど、「昔は吉永小百合さんの相手役は石原裕次郎さん、渡哲也さんやったけど、なんで俺がやるんやろな」言うたら、おっちゃんが即答ですよ。「もう飽きたんや」。 林:アハハハ。 鶴瓶:あの一発でド~ッと(笑いが)来ましたよ。でもね、それ以上からんでこない。一回ウケたら、またからんできてもおかしくないんやけど、そうはならない。 笑福亭鶴瓶さん(左)と林真理子さん [撮影/写真部・高橋奈緒、ヘアメイク/上田実穂(be-m)、スタイリング/上野真紀] 林:それが大阪の人のたしなみなんですね。 鶴瓶:たしなみですね。それと、身構えがあるんでしょうね、僕は。 林:言ってもかまわないという。 鶴瓶:そう。「西郷どん」のときも、おもしろいホン(脚本)やなと思ってやってたんやけど、大阪のおばちゃんに「あんなんちゃう(違う)で、岩倉具視」って言われて、「見たことあるんか」って(笑)。 林:中園ミホさんがお芝居か何かを見に行ったときに、鶴瓶さんに会って「岩倉具視、見ぃ~つけた」って言ったんですよね。 鶴瓶:何のことかわからんから、「何のことですか」言うたら、「今度、NHKの大河で西郷隆盛をやるので」いう話になって。 林:中園さんが歴史家の磯田道史さんに「岩倉具視ってどういう人ですか?」って聞いたら、「目が笑ってない人です」と言ったんでしょう? 中園:鶴瓶さんの1回目の放送のときに、磯田先生から電話かかってきて、「あれが岩倉具視です」っておっしゃったんです。 林:ほーお、歴史家が言うんだからそうなんですよね。 中園:でも、磯田先生も会ったことないわけだから(笑)。 鶴瓶:ええ加減な人や(笑)。でも、ありがたいですね。やったあとにわかります、ええもん出してもろたなって。 林:狡猾さだけじゃなくて、お公家さんの品位がちゃんとありましたよ。さすが中園ミホさん。 鶴瓶:前に僕がつくった落語(「山名屋浦里」)が歌舞伎になったんです。そのときに中園さんから電話かかってきて、「それ、映画かドラマにしません?」って言われたんです。 中園:いまもそれはあきらめてないです。 鶴瓶:タモリさんが「ブラタモリ」で聞いてきた話を僕に話して、それをもとに僕が落語にして(中村)勘九郎の前でしゃべったら、「それ、歌舞伎にさせてください」言うて、それで歌舞伎になったんです。 中園:勘九郎さんと七之助さんが演じて素晴らしかったんです。 鶴瓶:僕、勘三郎さんと仲よかったから、その流れでずっと来てるんですよね。 (構成/本誌・直木詩帆 編集協力/一木俊雄) 笑福亭鶴瓶(しょうふくてい・つるべ)/1951年、大阪府生まれ。72年、大学を中退し、六代目笑福亭松鶴に入門。関西で活動後、東京に進出。数多くのバラエティー番組で活躍するほか、俳優としても人気を博す。レギュラー番組に「ザ!世界仰天ニュース」「鶴瓶の家族に乾杯」など、過去の出演作に映画「ディア・ドクター」「閉鎖病棟」など。第43回日本アカデミー賞優秀主演男優賞など受賞多数。出演ドラマ「しずかちゃんとパパ」(NHK BSプレミアム・BS4K)は3月13日から放送予定。 >>【笑福亭鶴瓶が明かす初恋の人との結婚 弟子入り志願がプロポーズに?】へ続く※週刊朝日  2022年3月11日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2022/03/05 11:30
石原慎太郎が盟友・亀井静香に病床で語った最後の言葉 「涙を流しながら『また会おうな』と」
上田耕司 上田耕司
石原慎太郎が盟友・亀井静香に病床で語った最後の言葉 「涙を流しながら『また会おうな』と」
亀井静香氏 2月1日、元東京都知事で作家の石原慎太郎氏が都内で死去した。89歳だった。訃報後、東京の自宅前では、4兄弟がそろって会見。長男で自民党元幹事長の石原伸晃氏は、「(父は)膵臓がんをわずらっており、昨年10月に再発した」と闘病していたことを明かした。政界の「盟友」だった元運輸相の亀井静香氏(85)が在りし日の素顔と、最後に病床で対面したときの様子などを語った。 *  *  *「昨年12月中旬、石原から電話があった。『久しぶりに会いたい』という電話だったから(自宅まで)会いに行った。『医師から余命何カ月と言われた』と話していたよ。彼は『生きたい、生きたい』とわめいていたわけではない。来るべき死を予期し、堂々と受け止めていたんだ」  亀井氏は石原氏と最後に対面したときの様子をこう振り返る。すでに余命宣告された状態だったというが、亀井氏の前では元気そうに振る舞っていたという。 「自分の弱った姿を見せるような男ではないから。彼は以前から『死後の世界は虚無だ』と言っていた。そういう覚悟だったんじゃないのかな」  会見で伸晃氏は「去年12月には、短編小説ができあがったことを喜び『これがおれの遺作だな』と話していたが、先週まで執筆活動を続けていた」と語ったが、亀井氏も「一生懸命、ワープロを打って書いていたよ」とその様子を目の当たりにしている。最後の対面は30~40分ほどで、自宅を後にしたという。 「別れ際、『また会おうな』とハグをして、手を握ったんだけど、彼は涙を流していたな」  2016年5月19日、石原氏と亀井氏は、外国特派員協会で記者会見を行い、当時米大統領候補だったドナルド・トランプ氏に対して意見交換を申し入れることを発表した。  その際、石原氏は亀井氏を「私の政治的な盟友。侍が侍としての仲間の誓いをする時に昔は血判をしたもんですけれど、そういう仲の私の人生の友人であります」と紹介した。  2人の関係について改めて問うと、亀井氏は「彼とは『賢兄愚弟』だよ。彼が『賢兄』、私が『愚弟』」と表現した。 亀井氏の選挙応援に駆けつけ、演説する石原氏=2003年  1989年に石原氏が自民党総裁選に立候補した際も、亀井氏は奔走して推薦人20人を集めた。 「当たり前のことをしただけだよ、友人としてね。石原は知の巨人だった。政治家というのは彼の一部でしかない。薄汚い一部だよ」  95年、石原氏は「去勢された宦官(かんがん)のような国家になり果てた」という言葉を残し、国会議員を辞職した。その石原氏の思いを亀井氏はこう代弁する。 「それは政治家がダメだからさ。政治家がサラリーマン化して、モノが言える国会議員がいなくなった。こんな奴らとやっていられるかという思いだったのだろう」  それから4年後の99年、石原氏は東京都知事選に無所属で立候補し、初当選を果たす。週刊誌が銀座の元ホステスとの間に”隠し子”がいることを報じた。石原氏は定例記者会見でつっこまれると、あっさりとそれを認め、十分な責任を果たしていると説明した。 「彼はそんなことを隠すような男じゃないし、また自分から発表することでもないから、自然体で対応しただけ。純粋な男で『太陽の季節』そのものだよ」  作家としては、デビュー作の小説「太陽の季節」で芥川賞を23歳で授賞。小説は映画化され、弟の石原裕次郎さんが主演を務め、一躍スターとなった。その裕次郎さんは87年に52歳の若さで亡くなった。石原氏は96年、裕次郎さんの生涯を描いた私小説「弟」を出版。たちまち話題となり、テレビドラマ化された。 「彼は弟ついてはあまり語らなかったが、裕次郎を好きだった、愛していたというのはわかった」  裕次郎さんが亡くなってから、35年。石原氏も同じ場所へ旅立った。亀井氏は言う。 「太陽は沈んだけど、陽はまた昇る。石原慎太郎は日本人の心の中にいつまでも残り、彼は永遠に生きていくんだよ」 (AERAdot.編集部・上田耕司)
亀井静香石原慎太郎
dot. 2022/02/02 10:36
菅田将暉・小松菜奈結婚 共演からの強い絆は長続きする…「東出・杏」化しないコツ
菅田将暉・小松菜奈結婚 共演からの強い絆は長続きする…「東出・杏」化しないコツ
結婚した菅田将暉(左)と小松菜奈  俳優の菅田将暉(28)と小松菜奈(25)が11月15日、結婚したことを発表した。これまで、映画で3度も共演したことのある2人。『ディストラクション・ベイビーズ』(2016年)、『溺れるナイフ』(2016年)、そして『糸』(2020年)で、交際がスタートしたのは、『糸』の撮影中、2019年の秋頃だったという。「共演結婚は長続きする」という夫婦問題研究家の岡野あつこさんにその理由を聞いた。  *  *  * 「恋愛対象の人物と出会いの少ない職業の人たちだし、菅田将暉さんと小松菜奈さんは2人とも人気者だからプライベートの時間も少ないはず。ましてやコロナ禍だから人と接する機会も少ない。今回の結婚は、最初の映画共演の時から、菅田将暉さんの一目惚れだったとも報じられていましたが、コロナで精神的にストレスフルな生活の中で幸せな家庭を築きたかったのかもしれません」  そう話す岡野さんが、共演からの結婚が長続きする大きなポイントは周囲の説得。  「この2人の何がすごいかと言えば、それぞれの所属事務所を説得できたこと。人気も実力もある芸能人同士で、双方の事務所を説得するのは大変だったのではないでしょうか? 事務所から結婚を許してもらえたというのは、28歳と25歳という若い2人なのに純粋にすごいと思います。周囲をきちんと説得できるほどの相当しっかりとした考えを持って、結婚をスタートさせるので長続きすると言えます」  また、「菅田将暉さんの方から好きになっている」のもキーとなる点と指摘する。  「山本耕史さんと堀北真希さんの共演カップルは、山本耕史さんが堀北真希さんを大好きだったそうです。元々大好きというところから共演してしまうと他が見えなくなってしまうのでは? 昔で言うと石原裕次郎さんと北原三枝さん(笑)。石原裕次郎さんは映画で共演する前から北原さんの大ファンだったそうです。男性の側から大好きになってしまうと、年齢や事務所、その他、どんな大きな障壁があってもゴールインに突き進んでしまうのでしょう」 菅田将暉、小松菜奈双方のTwitterに菅田の直筆のコメントを掲載した。ラジオリスナーからは「もう少し細いペンはなかったのか?」のツッコミも(菅田将暉公式Twitterより)  最近の共演結婚と言えば、「逃げ恥婚」と言われた星野源と新垣結衣。ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」で共演してゴールインしたが、この2人と比較し、菅田・小松カップルで岡野さんがやや気になるのが年齢。  「新垣結衣さんは33歳で星野源さんは40歳で、色々な人を見てから『この人』と決めたのだと思いました。菅田さんと小松さんの結婚のニュースを知った時、率直な感想は『若いな、せめてあと2年後とかでもいいのでは?』。菅田さんが28歳、小松さんが25歳で、特に菅田さんは映画もドラマも音楽もという超売れっ子。30代前半までにさらに仕事を充実させて成熟してからの結婚でもいいのではと思ってしまった。その点は気になった一方で、菅田さんはもう少し仕事をしてから結婚ではなく、結婚してから安心して仕事に励むことを選んだのは純粋で真面目だからなのだと思います」  強固な結びつきからスタートする共演結婚は長続きすると岡野さんは言うが、東出昌大・杏のような例もある。  「東出さんの場合は大失敗例で(笑)。東出さんは俳優として『プロ化』していなかったのだと思う。俳優としてプロフェッショナルだったならば、共演するたびに恋愛はしない。好きという感情が湧いても、そこはプロ。それが、東出さんは共演した唐田えりかさんの方に走ってしまった。余計なお世話ですが、菅田さんはまだ若いし、俳優としてこれからもっと成熟していく段階だからこそ色々な共演を経験しても、『東出二世』というか『東出化』はいけない」  菅田将暉は結婚発表から8時間後、自身がパーソナリティを務めるラジオ番組『オールナイトニッポン』の生放送冒頭約20分間を使い結婚を報告。「いままでは役の人生に向き合ってきたが自分の人生に向き合うきっかけになった。そのきっかけを作ってくれた小松さんには感謝しています」と語った。その言葉に揺るぎはなかった――。(AERAdot.編集部太田裕子)
小松菜奈菅田将暉
dot. 2021/11/16 09:50
衆院選特番で賛否を浴びた太田光氏「政治家に気を遣わなくてもいい」とカンニング竹山
カンニング竹山 カンニング竹山
衆院選特番で賛否を浴びた太田光氏「政治家に気を遣わなくてもいい」とカンニング竹山
カンニング竹山さん(撮影/今村拓馬)  衆院選特番を見ていて面白かったのは爆笑問題の太田光さんと言い切る、お笑い芸人のカンニング竹山さん。太田さんには賛否はあったが、何より生放送ならではの面白さがあったと言う。  *  *  *  衆院選や政治の事をテレビでもっと取り上げなければダメだと先週のこのコラムのテーマにしましたが、31日の衆院選の開票速報特番を民放各局カチャカチャ変えながら、今回、TBSの選挙特番に出演した爆笑問題の太田光さんが面白いな思った。  太田さんの番組での物言いに対して怒っていたり、批判しているコメントがTwitterにいくつもあがっていたが、その怒っている人たちの意見もわかる。賛否はありましたが、単純にテレビ番組としては太田さんの特番が面白かった。  太田さんが中継でつながった二階さんに質問したやるとりが話題になっていましたよね。太田さんが二階さんに「いつまで政治家を続ける気なのか?」と聞いたわけです。そうしたら二階さんが「いま当選したばかりの人に向かって言う言葉ではない」ということを返され、失礼だとされた。国民が前から思っていることを言っただけだと太田さんは言いましたが、中継の時間が限られていたので、そこで終わりになってしまいました。  これを見ていて、太田さんの意見は、意見としてはアリじゃないですか。二階さんの選挙区の和歌山以外の人は二階さんには票を入れていないから、投票した人たちに失礼というのは全員には当てはまらない。また、二階さんがやってきたことに対して、「二階さんって、なんなの? いろいろあってもなんで議員を続けているの?」と思いながら、これまでご本人に全く問いたださなかったわけですよ。  だから、二階さんに質問できるチャンスがあれば「二階さん、いつまでやるんですか?」と聞くべきですよね。中継が二階さんにつながった時に、その質問をするのはジャーナリズムとしても真っ当なのではと思いました。今まで二階さんに「いつ聞くの? 誰も聞かなかったじゃん!」という事に太田さんが斬り込んで、僕は見ていてワクワク、ドキドキしましたよね。政治家に質問するのになんで気を遣わなければいけないのか? 我々の票で政治家になっただけで、アンタたち政治家が偉いわけでもなんでもなく、託されてんだから。 衆院選投開票日夜の枝野幸男氏事務所。議席を減らしたことにより枝野氏は党代表辞任へ(C)朝日新聞社  太田さんの起用だけでなくTBSスゲーなと思ったのは、田村憲久前厚労大臣の娘・田村真子さんんがTBSでアナウンサーしているのに、田村さんを中継でつないで、太田さんとぶつけるわけですよ。これも凄いなと思って、生放送という番組で味わえるドキドキですよね。  選挙特番は池上彰さんが「池上無双」と称されてすごいと言われきた。でも、テレビ番組だからそのうち飽きられてきますよね。そうなると、テレビ局の取る立場としては、2つに1つ。選挙特番は公式行事みたいなものだから、飽きられても継続していく姿勢を取るか、数字が欲しいとなれば番組の作りを変えていくしかない。だから、今回、各局、色々考えてきていたなと思う。そもそも、選挙への興味も薄いわけだから。選挙特番なんか見ない。興味がある人しか見ない。そうすると民放が色々なキャスターを打ち出してきたり、見せ方を考えてくるのは当たり前のこと。そのまま誰も見ない選挙特番をやりますか? ということ。  結果、次の選挙の時の開票速報の特番でも太田さんが見たいと思いました。「次は何を言うんだろう」とか「また誰か、政治家に叱られないかなぁ」とか期待する。そして、太田さんの言っていることは分かりやすくて、真っ当なことを話している。太田さんの番組には賛否もあって、批判的な人や怒っている人は、チャンネルを変えればいいだけ。僕は選んで見ているから、選ぶ権利は視聴者にある。それで言うと、開票の速報だけを知りたかったら、NHKを見ていればいいわけで、もっと言えば結果だけならラジオでもいい。  選挙特番でダメだったのが、開票速報が落ち着いた第2部というような感じでやっていた23時台からの放送。各局、若者の政治の関心を促すような内容を放送していましたが、まず選挙に興味がないと言っている若者像があるわけですよね。選挙に興味がない若者が、そもそも選挙特番自体も見ていないですよね。深夜にテレビを見るのは若者でしょという考えも古くないか!? そこがズレている。夜の11時過ぎに若者はテレビなんか見てないよ。配信見たり、YouTube見ている。若者に政治参加を訴えるなら、メディアミックスでやらないと!  結局、選挙特番は報道が作っているから、そういう人たちのキャスティングって、「若者の代表です」という出演者となる。その若者の代表として選ばれる人って、総じて学歴があって、頭がいい。だから自ら考えを持って活動しているわけですけど、そもそも選挙に行かない若者って、そういう若者があまり好きではない。「やってりゃいいじゃん」となって、その人たちが訴えかけても響きづらい。響いていない人たちを取り込まなければいけないのに、そこに若者の政治離れの悪循環がある。  政治離れをなんとかしようとしている人たちは、知識レベルで一定より上の人しか見ていないから、上の次元で話をしてしまう。若い世代に政治をというのであれば、もっとやり方を考えないと難しいのかなと思いますね。インテリの若い子が出てきて、その言動を見て「同じ世代が頑張っているから、俺も」という人ももちろんいると思います。でも、選挙特番の第2部は大学のゼミみたいだったじゃないですか。そのゼミを取っている人は参加するけど、そうじゃない人からすれば興味もないテーマだし、参加したくもなければ、見たくもない。  深夜の番組だったらもっと振り切った面白いことをやってもいいのではないか? 選挙開票の日の夜で、一番面白いお祭りのクライマックスなんだから、賛否を浴びせられるような人たちが好き勝手な話をしてもいいと思うんですよ。選挙特番の日だけは、極端に右や左の思想の人が出て話したっていいと思う。それくらい振り切った選挙特番にした方が面白いし、「選挙って面白そうだな」という若者が出てくるかもしれない。政治家や政治を評論する人たちを見て「このオッサンたちいつもケンカしているんだよな」とか注目を浴びたり。  選挙特番に関しては各局見ながら考えましたが、選挙結果そのものに関しては、自分の中でまだ、まとめきれていないけど、言ってみれば予想通りだったな。与党が過半数取るでしょう、立憲民主党は負けるでしょうとは思っていた。なぜなら、立憲民主党が昔から右往左往しているのと、共産党と組むことの信念が見えなかった。  その一方で、立憲民主党の右往左往ぶりの受け皿になったのが維新だった。維新がこれだけ議席を伸ばしたのはコロナの影響も大きいと思う。この2年間、日本全国がコロナで大変な時に、大阪は吉村知事のリーダーシップは凄かったですよね。それを見て「維新はやってくれるんじゃないか」って思うのでは? だから、大阪・兵庫での維新の勢いは凄かったですよね。でも、東京の小選挙区ではさっぱりですからね。地方政党から抜け出ていないけど、受け皿にはなっていた。比例で自民党には入れたくない、でも野党は入れたくない、じゃぁ、維新かっていう人がいたのだと思う。そいうことから、予想通りだったのかなと思った。  小沢一郎さんや石原伸晃さんが敗北したのも、有権者も世代交代しているんだと思う。石原さんの選挙と言えば、石原軍団が応援に来ていたけど、石原軍団も解散してしまい、今の若い世代は「石原裕次郎って誰?」と有権者の世代交代もあるわけじゃないですか。落ちるわけがないと言われた小沢一郎さんも落ちるということは選挙区の岩手の世代交代もありますよね。小沢さんは昔からじいちゃん、ばあちゃんに強いって言われて、それが何年も続いていたんですから。  選挙特番で太田さんは「成長なくして分配無し」ということを掲げる岸田さんに対して、「成長ってなんだ?」って斬り込んだ。日本で今、何を作るんだ? その成長を教えてくれって突っ込んだけど、残念ながら時間切れになってしまった。聞きたいことはまさにそのことで、成長なくして分配、成長って収入に関わってくることですよね。つまり何を売るんだってこと。それを具体的には言わないじゃないですか。そこはビジネス的には分配は無理じゃないですか。太田さんが、そこを突っついたのが面白いと思った。だから、自民党も過半数の議席を取ったけど、元々の選挙戦が具体的じゃなかったんですよね。なんか、そういうところがあったなと気が付かされた。  太田さんのその質問から、日本が今デジタル推進だうんぬんというのであれば、日本がいち早くできるのって、ネット選挙かもしれない。世界に先駆けてネット選挙のシステムが構築できたら日本の国益にも関係してくるんじゃないか。日本のデジタルはここまでできますと見せつけないと成長なくして分配なしなのではないか?と思った。スマホでポチっと投票ができるようになれば、また流れがガラッと変わると思いましたね。 ■カンニング竹山/1971年、福岡県生まれ。オンラインサロン「竹山報道局」は、4月1日から手作り配信局「TAKEFLIX」にリニューアル。ネットでCAMPFIRE を検索→CAMPFIREページ内でカンニング竹山を検索→カンニング竹山オンラインサロン限定番組竹山報道局から会員登録。
カンニング竹山太田光爆笑問題衆議院議員選挙
dot. 2021/11/03 11:30
天龍源一郎が語る“大人” 20歳で貴ノ花に敗北感 リック・フレアーと北の富士に学ぶ大人の振る舞い
天龍源一郎 天龍源一郎
天龍源一郎が語る“大人” 20歳で貴ノ花に敗北感 リック・フレアーと北の富士に学ぶ大人の振る舞い
天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子) 新年のご挨拶は「エイエイオー!」で締め(天龍源一郎公式インスタグラム(@tenryu_genichiro)より)  50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、突然患った大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。2020年2月2日に迎えた70歳という節目の年に、いま天龍さんが伝えたいことは? 今回は「大人」をテーマに、飄々と明るくつれづれに語ります。 *  *  *  明日11日は成人の日だね。俺は初場所中だったから成人式には出ていないんだ。相撲部屋で成人になった力士が集められて、親方から「お前たちも今日から大人だから~」というような訓示を受けて、記念に草履(ぞうり)をもらったことを覚えている。時間にしたら10分か15分くらいだったかな。同い年の貴ノ花が18歳で十両に上がっていたので、大人になったという感慨よりも焦りの方が大きかったなぁ。成人したのに、俺はこんなところでもたもたしていていいのかよってね。貴ノ花のことを気にしなかったらいいんだろうけど、同い年で同じ2月生まれ、相撲教習所から一緒だったからやっぱり気になるんだよね。相撲は番付というはっきりした格付けがあるからすごく急かされるんだ……。  そんな俺も十両に上がって、付け人がついて小遣いを渡したりできるようになって、ようやく一人前になったと思ったもんだ。相撲取りは世間的な成人や大人ではなくて、十両に上がったときにようやく大人になるという感じだね。貴ノ花も18歳で十両に上がったときに大人になったという感覚を持ったと思う。プロ野球だって二軍にいる22~23歳の選手よりも、10代で一軍に上がっている方が大人になったという気持ちが強いんじゃないかな。  上になってポジション与えられたら、自立した考えが芽生える。自分自身も気を引き締めて、後輩の面倒も見て、世間的には成人でも結果を出さないと半人前だ。スポーツ選手は特にその傾向が強いと思う。俺も関取になってからは、自分のしていることに口をはさまれなくなったけど、その分自分で律しなければと思ったよ。十両になったら何があっても自己責任。すべての責任を自分でかぶらなきゃいけないと思うと、やろうとすることに躊躇(ちゅうちょ)することもあったね。  さて、時は流れて、俺がプロレスに転向して、京都で全日本プロレスの大会があったときに、当時もう二子山親方になっていた貴ノ花が顔を出してくれたことがあった。十数年会ってなかったのに、「おぉ、嶋田~、頑張ってるね~」って声をかけてくれてね。貴ノ花も俺のことを気にかけていてくれて、同期の桜だと思ってくれていたらうれしいね。  大人になった実感といえば、結婚も大きかった。周りを見ると、俺と同じような性格のヤツが独身でチャラくやっているのも多かったから、ちゃんとしていないといつまた根無し草になるかわからないって危惧する俺がいた。それまでは、いいところまで行くけど結婚までは踏み切れなかったんだよね。お金もそこそこ稼げていたし、自由気ままに生きていたいと思っていたのも事実だ。でも、振り返るとあの時に結婚して良かったよ。結婚した時は「伴侶を路頭に迷わさないように食わさなきゃいけない」と同時に「天龍源一郎と結婚した女にしめしめと思わせてやろう」という気持ちもあった(笑)。結婚生活の自己評価? まあそれなりの結果は残せたんじゃないかな? いや、こういうことを自分で言うのは野暮だ。「まだまだこれからです!」と言っておいた方がいいか(笑)。  それともう一つ、娘(※天龍プロジェクト代表の嶋田紋奈さん)が生まれたときも大人の責任を感じた。その責任感は俺と女房の間に子どもが生まれた事実もあったが、それよりも、今まで俺がプロレスでベルトを取ろうが何をしようが何にも言ってこないレスラーたちから「源ちゃん、娘が生まれたんだって。良かったね! おめでとう!」と言われたことだ。プロレスラーからの祝福の方が、プレッシャーを感じたね(苦笑)。  娘が大人になったと感じたきっかけ? そうだなぁ……。 ※ここかからは同席していた紋奈さんによる回想 【「高校3年生のとき、父と大喧嘩をして気まずくなっていたことがありました。その頃って、早く大人になりたいけれど、まだまだ子どもな年頃。私は口が立つからいろいろと言い合っちゃって(笑)。そんなある日、父に話があると呼ばれて『今日からあなたを大人として認めます。これからはさん付けで呼ぶし、いちいち怒ったりもしない。その代わり、間違ったことをしないように自分で考えて行動しなければいけいないよ』と言われました。生意気だった娘を尊重しつつ、父もひとつ上のステップに上がって諭してくれたことで、私も一段上に引き上げられたように感じました。天龍源一郎という父親にそう言われて、こちらも大人にならなければと身が引き締まる思いでした。とはいえ、ずっと一緒にいるせいもあってか、父とはいまだに『紋奈さん、何歳になったの? えぇ~もう30歳を超えたんだ~』というやり取りがあって、私の印象はいつまでも幼い頃のままのみたいです(笑)」】  娘の年齢に関しては、そうだね(笑)。考えてみたらうちの親父も俺ら子どもを「源一郎さん、源さん」とさん付けで呼んでいて、呼び捨てにはしてなかったなって思ってね。いくら娘だからといっても、一人の大人としてリスペクトしなきゃなって考えているんだ。  プロレスラーで大人だと感じて、俺も手本にしているのがリック・フレアーだ。彼はトップレスラーなのに、威張っていなくて、フランクな性格。初めてアメリカに行ったとき、彼の立ち居振る舞いを見て、プロレスで上に立つというのはみんなに気遣いをして、周囲から尊敬されるものなんだということを教えられた。プロレスラーがバーにいる客全員におごるなんてありえないけど、リック・フレアーはしょっちゅうやっていたし、俺もそんな彼をマネしたもんだ。もし、俺におごってもらったことがある人がいたら、礼は俺じゃなくてリック・フレアーに言ってくれ!  相撲で尊敬している大人と言えば、元・佐賀ノ花の二所ノ関親方だね。この方は、横綱の大鵬さんや大関の大麒麟さんがいる二所ノ関部屋の親方ってこともあってか、凛としたオーラを持っていて、読書好きでずっと部屋で本を読んでいるような人。ある時、なぜいつも部屋にいて本を読んでいるのか、その理由を教えてもらったことがある。「俺が部屋にずっといるのは、例えば、若い衆が外で何か不祥事を起こしたとして、その相手が部屋に話をつけに来たとき、トップの親方がいなかったらみっともないだろう」ということだったんだ。「相手が話をつけに来る」のところは「殴り込みに来る」だったかな?(笑)。  今ではトラブルがあっても本人同士で話をつけろとか言って、逃げるトップも多いだろう。「昔のお相撲さん」と言ってしまえばそれまでかもしれないけど、彼には親方としてというよりも、上に立つ人の姿勢、処世とはどういうものかを教えられたね。そもそも、相撲部屋にいて何かもめ事やトラブルがあっても、親方や周りがなだめてくれて本人のところまで話が行かないように守ってくれていたんだ。逆にプロレスの世界に行くと、女性問題でなんでも直接本人のところにくるから、最初は面食らったもんだよ(笑)。  そして、俺が憧れる大人といえば、やっぱり北の富士さんだ。天龍源一郎の憧れるカッコいい人で殿堂入りだね(笑)。相撲の現役時代、北の富士さんが出羽海部屋から九重部屋に移るとき、本来ならご法度なのに「北の富士が出るならしょうがない」ってみんなに言わしめたんだ。北の富士さんの日々の行いがみんなにそう言わせたんじゃないかな。「(九重親方の)千代の山関に相撲の世界に入れもらったんだから、部屋を持ったら付いて行くのが筋だ」って、鶴田浩二の世界だよ! 北の富士さんと付き合ったことがないとピンとこないと思うけど、一晩か二晩、酒席を一緒にしたら必ず惚れると思うよ。俺の娘も20歳くらいのときにご一緒して「カッコいい~」って惚れたくらいだからね。  北の富士さんが横綱の頃は、北の富士さんの班と、こちらも横綱の玉の海関の班の2班に別れて地方従業をやっていたんだ。3~4場所を残して玉の海関が急逝したとき、すでに巡業を終えていた北の富士さんが、横綱の玉の海関を楽しみにしていたファンがいるんだからと、代わりに巡業に参加したんだ。そして、横綱の土俵入りを披露するとき、本来は雲龍型の北の富士さんが、玉の海関の不知火型(しらぬいがた)で土俵入りをしたんだよね。こういうところも粋だよね。  北の富士さんくらい、相撲をやめた後も日の当たる場所をずっと歩いている人はいないよ。映画界の人が石原裕次郎さんに憧れるのと同じく、相撲界の人は北の富士さんに憧れるという人は多いよ。そんな北の富士さんだけど、俺もまいっちゃったことがたくさんある。例えば、一緒にスナックに行って、俺がカラオケで気持ちよく歌っていると「源ちゃん、そんなに下手なのによく歌えるね」って。あれにはさすがの俺もカチンと来たよ!(笑)  それから、プロレスラーになってから九重部屋に顔を出したとき、横綱の千代の富士関と言い合いになったことがあるんだけど、その場にいた北の富士さんが仲裁するかと思ったら「俺、知らな~い」ってどこかへ行っちゃった。あれは疾風のように早かったよ(笑)。飄々としてお茶目なところも憎めない。大相撲中継で解説やっている時も、舞の海が長い講釈をしていると「俺はわかんないな~」なんて平気で言うからね(笑)。舞の海も北の富士さんにそう言われたら困っちゃうよ。  大人がテーマだったけど、結局また北の富士さんの話になっちゃったね(笑)。成人式かぁ……70歳の今になって振り返ると、20歳はまだ人生の何分目かだ。かつての俺もそうだったけど、若い頃はつい功を焦ってバタバタしてしまうけど、しっかり自分の考えを持って足元を固めた方がいいっていうのが俺の結論だ。ちゃんと地に足をつけて頑張っていれば、きっと結果はついてくるよ! (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
プロレス天龍源一郎相撲
dot. 2021/01/10 07:00
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天龍源一郎が語る“エンタメ” ジャンボ鶴田を誘ったら「誰?」と言われたエルヴィスのコンサートは一番の思い出
天龍源一郎さん 叫ぶ?天龍源一郎がデザインされたTシャツを自ら着てみた!(天龍源一郎公式インスタグラムより)  50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、突然患った大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。2月2日に迎えた70歳という節目の年に、いま天龍さんが伝えたいことは?今回は「エンタメ」をテーマに、飄々と明るくつれづれに語ります。 *  *  *  俺が子どもの頃のテレビ番組といったら『月光仮面』や『赤胴鈴之助』、『快傑ハリマオ』だ。周りの友達もみんな好きだったなぁ。ときどき、昔の昭和30 年代のテレビ番組特集なんかをやってるとやっぱり観ちゃうね。あとはNHKでやっていた『お笑い三人組』。そもそも俺の地元の福井県は観られるチャンネルがNHKと日本テレビくらいだったんだよ。やっぱり田舎に行くと読売巨人軍ネットワークで日本テレビ系が強いね! 全日本プロレスの中継をしていたのも日本テレビだからね。  上京して相撲の世界に入ってからは映画もよく観るようになった。午後4時頃に稽古が終わるとなけなしの金を持って錦糸町へ出かけてね。映画を観て、中華屋でラーメンを食って、気分を新たにして寝るっていうのが楽しみだったなぁ。その当時は西部劇、マカロニウエスタンが流行ったころで、クリント・イーストウッドの作品が特に好きだった。彼もそこから有名になっていったからね。当時付き合っていたお姉ちゃんとソフィア・ローレンの『ひまわり』を観に行ったことがあるんだけど、映画館に行ったら客は女の子ばっかり。びんつけ油でマゲを結った浴衣姿の大男はなんと場違いなことか! 映画が終わって館内が明るくなったときの恥ずかしさは今でも覚えているよ。  あの頃は近くに日活の映画館もあって、石原裕次郎さん、吉永小百合さん、高橋英樹さんが主演した作品をよく観たもんだ。俺が観ていたのは15~16歳くらいだけど、その当時の高橋英樹さんも20歳そこそこの若さで日活の主演だもんね。いやぁ、大したもんだよ! そうやって若い頃に観ていた映画で主演していた高橋英樹さんとも後になってお会いしたり、通っていたジムで吉永小百合さんをお見かけしたりしたけど、これは感慨深いね。ジムで吉永さんがトレーニングしている姿に、俺も大いに触発されたもんだよ。    映画の思い出といえばもうひとつ、女房との初めての映画デートがあるね。そのときに一緒に観たのは三船敏郎さん主演の任侠映画『制覇』。初めての映画デートで任侠ものを観るんだよ。しかも、女房が観たいといった映画だからな! うちの女房も大したもんだ(笑)。  相撲時代のもうひとつの楽しみがラジオだ。相撲に入って初めて自分の個室が与えられたときに、真っ先に買ったのがラジオで、相撲時代はずーっとラジオを聴いていたよ。テレビは兄弟子がチャンネル権を持ってるから、あんまり面白くなくってね。よくラジオで吉田拓郎さんの番組を聴いていて、拓郎さんの曲が流れると兄弟子に「なんだ、その女々しい歌は!」なんて言われたもんだよ(苦笑)。  ラジオはローカル局が好きで、FM世田谷やFM川崎、大阪のローカル局もよく聴いたもんだ。高速道路を走っているときでも、世田谷を通るときは、ちょっとでもいいから聴きたくてカーラジオをFM世田谷に合わせるんだけど、5分間くらいで通過しちゃってほとんど聴けない(笑)。今でもローカル局の生放送を聴くと、巡業で行った大阪で笑福亭鶴瓶さんの深夜ラジオを聴いていたこととか、若い頃のことを思い出すね。  プロレスに転向してアメリカ修行のときもラジオが友達だったね。渡米するたびにラジオを新調して、なにかあるとラジオで気を紛らわしたり、滞在先のモーテルでカントリーミュージックを聴いたりしたもんだ。カントリーミュージックは曲の途中でよく「ヒーハー!」って掛け声が入るじゃない。明るい曲が多いからテンションが上がるし、現地のレスラーが好きだから俺も影響されたんだ。俺がいたテリトリーはテキサスやノースカロライナといった南部だったから、ラジオでも流れるのもカントリーミュージックが多くて。今でも、夜中にテレビ番組の通販で「カントリミュージック100曲セット」というのを観ると、思わず買いそうになる俺がいるね。  さて、アメリカ時代の一番の音楽の思い出といえば、ジャンボ鶴田と一緒に行ったエルヴィス・プレスリーのコンサートだ! 俺が滞在していたテキサス州アマリロにエルヴィスが来るっていうんで、ドリー(・ファンク・Jr)に頼んでチケットを取ってもらったんだ。俺は興奮してたけど、ジャンボはエルヴィスを知らなくて「誰だい?」なんて言うもんだから、「すごい歌手だよ!」ってジャンボも誘ってね。そしたらジャンボも「いやぁ~、カッコいいね!」なんて、すっかりハマっちゃった。たしかシュープリームスが前座で歌っていたなぁ。でも、俺は嬉しい反面「ビバリーヒルズやハワイみたいな土地でコンサートをしていたエルヴィスがこんな田舎町まで来て、都落ちしたもんだ……」と少し寂しい気持ちになったことも覚えているよ。その後すぐにエルヴィスが亡くなって、ノースカロライナに行ったとき、現地のレスラーが「本当はこの町にエルヴィスが来て、あそこのモーテルを借り切って泊まるはずだったんだよ!」と自慢げに言うんだ。やっぱり、晩年になってもエルヴィスは大スターだったね。彼が“来る予定だった”ことまで自慢話になるんだから。  俺にはそんなエルヴィスのある言葉に教えられたことがあるんだ。エルヴィスがキャデラックを15台も20台も持っていることに対して「なんでこんなに車を持っているんだ?」と聞かれて、「この商売はどうなるか分からないじゃないか。いつか金がキツくなったときに1台ずつ売っていけば飯が食えるだろう」って言ったというんだ。俺はその言葉に感銘を受けてね、自分が調子いいときに買った物はどんな物でも、ピンチになったら平気で売れるようになった。買った物を守るよりも、家庭を守る方が大切だからね。これは俺が生涯大切にしているエルヴィスの教えだ。  さて、アメリカではカントリーミュージックやエルヴィスに染まったけど、日本でもコンサートに行く機会は多い。昔は松任谷由実さんや、最近だとCMで共演した平野紫燿君がいるKing & Princeのコンサートにも行ったよ。キンプリのコンサートにいる俺が場違いすぎて、ちょっと照れたけどな!(笑)。そして、ここ20年、毎年行ってるのが前川清さんのディナーショーだ。前川さんとはジム仲間でね、初めてジムでお会いしたときに前川さんの方から「がんばってるね」と声をかけてくれて、「前川さんも見てくれているのか!」と励みになったもんだよ。それからのお付き合いで、ほかのジム仲間に誘われてディナーショーに行くようになった。今ではディナーショーがジム仲間の同窓会みたいになっているよ(笑)。  前川さんはキャリアが長いし、俺たちの時代とヒット曲がマッチするから、ディナーショーはすごく楽しい。その一方で、最近は年の締めくくりに「今年も前川さんのショーに来られたなぁ。あと何回来ることができるかなぁ」なんてしんみりしている俺がいる。馬場さんやジャンボ、三沢(光晴)も亡くなって「俺もよくここまで生きてきたな」という思いが年々強くなるね。歳のせいかな、ディナーショーで相撲時代のヒット曲を聴くと思い通りいかなくて悔しい想いをしたときのことを思い出したりしてグッときたり、カントリーミュージックを聴いてちょっとホロっとしてしまう俺がいるんだ。昔はディナーショーの前に酒を飲みまくって、コンサートが始まるとグーグー寝てたいた俺がね、変わるもんだよ(笑)。  前川さんに限らず、コンサートやライブはいいもんだね。いつだったか、仕事と仕事の合間に代表(※娘の嶋田紋奈さん)と新宿の末広亭に行って落語を一緒に聴いたんだ。そしたら代表が「ちょっとした時間に寄席に行こうなんて、大将も粋なところがあるね」なんて言ってね(笑)。落語やコンサートもライブでやるっていうのは、相撲やプロレスをやってきた俺自身と共鳴するところがあるんだね。やっぱり俺はライブが一番面白い! 相撲協会も夏場所は国技館を使って無観客のライブを放送しただろう。ああいう風に国技館を使えるのはすごいね。いやぁ、さすが俺が出たところだって自慢できるよ!(笑)  今はライブもままならない部分があるから安全が第一だけどライブの良さをいかに殺さずに深化していくかが、俺たちの業界もそうだけど勝負どころだよね! <プロフィール> 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。天龍プロジェクトpresentsトークバトルをLIVE配信で8月25日に再始動。対戦相手は黒のカリスマ蝶野正洋さん!配信チケット3,500円(税込)は絶賛発売中。配信先https://tenryuproject.zaiko.io/_item/328761 (構成・高橋ダイスケ)
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dot. 2020/08/09 07:00
一之輔が娘に褒められた! 即位パレードの昼下がり
春風亭一之輔 春風亭一之輔
一之輔が娘に褒められた! 即位パレードの昼下がり
春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)/1978年、千葉県生まれ。落語家。2001年、日本大学芸術学部卒業後、春風亭一朝に入門。新刊書籍『春風亭一之輔のおもしろ落語入門 おかわり!』(小学館)が絶賛発売中! イラスト/もりいくすお  落語家・春風亭一之輔氏が週刊朝日で連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今週のお題は「パレード」。 *  *  *  11月9日。夕刻。「渋谷らくご」という落語会の楽屋。スマホをいじっていると、天皇陛下御即位の国民祭典の生動画が流れてきた。そんなイベントがあるとは……。少なくともその時楽屋にいた噺家は誰も知らなかった。ボンヤリ見ているとフンドシ一丁の男の人が太鼓を乱れ打ち、ののちに開幕。……誰が構成を考えたんだろうか? 嵐、熱唱。芦田愛菜、立派。フンドシは謎。そうだった、パレードは台風被害で10日に延期になったのだな。明日か!?  11月10日。早朝。半蔵門のJFNでラジオの生放送終了後、9時に表に出る。なるほど、お巡りさんが多い。麹町駅まで歩いていると、新宿方面からサイドカーの付いた黒塗りのバイクが数台走ってきた。サイドカー……なんて「おとこのこ心」をくすぐる乗り物なんだろう。41年生きてきて、いまだに乗ったことがない。ここまで乗らずにきてしまったのだからもう一生乗ることはないんだろうな……。  帰宅。明日11日から10日間の地方公演だ。ラジオはレギュラーなので仕方ないが、今日は1日仕事を入れずに空けておいた。ゆっくり休む。午前中はとりあえず仮眠。午後起床。子供たちは学校の上履きを洗っていた。ああ、天気はいいのだな。テレビをつけると15時からのパレードに向けて各局特番。サッカー中継の局もある。ただEテレでは14時からいつもと変わらず「日本の話芸」という落語中継番組だった。  流れているのは昔昔亭桃太郎師匠の新作落語「結婚相談所」。安定のナンセンス落語。私は桃太郎師匠の噺が大好きだ。痛風で身動きがとれない時、桃太郎師匠の落語をヘッドホンで聴くのがなによりの痛み止めになった。魅惑のボソボソボイスが未知への領域にいざなってくれる。かなりヤバいクスリだ。ニヤニヤヨダレを垂らしながら観ていると、噺の終盤に桃太郎師匠はおもむろにサングラスをかけ、ハンドマイクで石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』を歌い始めた。もうダメ。最高……身悶えてるうちに噺は唐突に終わり、パレードまで30分を切っていた。  チャンネルを変えるとカウントダウンの表示のスーパーが出ている。パレードって「せーのドン」で始まるものなんだろうか? 多少のズレはありそうだが。天皇陛下の同級生がコメントをしている。陛下と比べるとかなり年嵩に見える。してみると陛下は若々しい。楽隊の行進曲にのってパレードが始まった。甥っ子が自衛隊の音楽隊にいるので「あいつもそのうちこういう場所で演奏するのかな」とか思いながら眺めてると、画面には朝見たばかりのサイドカー。おー、こういう衣装で運転するのか! カッコいい! 「おーい、パレードやってるぞー!」と声をかけたが、長男次男はマンガを読み耽っている。末の娘は学校の校庭開放に遊びに行くと言う。「じゃ、パパも行くかなー」「へー、別に来てもいいよー」だって。近所の子供たちと皆で「しりとりバスケット」なる遊びをする。順番にシュートする際にしりとりで言葉を叫ぶだけの遊び。「しりとり!」「りんご!」「御即位!」「イカ!」みたいに。これでも中学時代はバスケ部だ。ポンポン決めたら娘に「パパはバスケ上手すぎる!」と褒められた。  令和元年11月10日はなかなかに良き日でありました。 ※週刊朝日  2019年12月6日号
春風亭一之輔
週刊朝日 2019/12/01 16:00
ブームの“粉骨” 値段は? やり方は? 海洋散骨は漁師の副業にも
ブームの“粉骨” 値段は? やり方は? 海洋散骨は漁師の副業にも
花は必ず茎をとって、最低限の花びらだけを撒く (撮影/田茂井治) 粉骨の一連の作業に要する時間は2~4時間ほど (撮影/田茂井治)  遺骨を“粉骨”する人が増えている。粉骨して海洋散骨や樹木葬というかたちで自然に返すためだ。背景には、少子高齢化で墓守が少なくなっているという現実がある。粉骨や海洋散骨の現場はどうなっているのか。ジャーナリストの田茂井治氏が潜入取材した。 *  *  * 「“私の”はそのうち娘が持ってくるからよろしくね」  梅雨明け前の東京都江東区。住宅地の一角で、高齢女性はそう言って路地に消えていった。小さな木箱を抱えたその女性の背中が小さくなるまで見送っていたのは甲斐浩司氏(52)。「琉宮海葬」というサービス名で、遺骨の粉骨処理と海洋散骨などを手掛ける「パイル21」の代表だ。  高齢の女性は数年前に亡くなった旦那さんのそばにいたいという思いで、田舎のお墓から遺骨を引き揚げ、甲斐氏に粉骨を依頼。5分の1程度になった旦那さんを引き取りに来たのだ。後日、自宅に近い納骨堂に大半を納め、一部を自宅の仏壇に分骨するという。  近年、このように骨をパウダー状にする「粉骨」の希望者が増えている。宗教学者の島田裕巳氏が言う。 「少子高齢化で墓守がいなくなり、墓を維持できない、墓をつくってもしょうがないと考える人が増えた。その結果、粉骨して海に撒いたり、樹木葬というかたちで自然に返す方法を選択する人が増えています」  現代ならではの理由で粉骨を希望する家族も多い。前出の甲斐氏が話す。 「死んでまで面倒をみたくないと『粉骨してそちらが知っている納骨堂に送っておいて』と遺骨をゆうパックで送って、その後、連絡が取れなくなる人もいます」  実際に粉骨する現場を見せてもらった。閑静な住宅街にある“粉骨場”にはゆうパックで届いた遺骨が山積みになっていた。 「多い日には20柱の遺骨が届く。ピークの10~11月は月に700柱の粉骨をお願いされる」という。  届いた遺骨の保存状態はさまざまだ。火葬した遺骨を骨壺から出して墓下に納めていた場合は、周囲の土ごとゆうパックで送られてくることも。土と骨を振り分け、“洗骨”する必要がある。一方で、骨壺ごと墓下に長く安置されていた遺骨も大半は洗骨する。 「一見すると密閉された骨壺ですが、内部に結露が生じて水浸しになっている遺骨も多い。昔の骨壺は“建て付け”が悪いのか、隙間からイモリが入って、中に卵を産みつけていることも」  そう話しながら、遺骨を洗う甲斐氏。その合間に、試薬を取り出し、骨が浸かった水につけた。 「アスベストと同程度の高い毒性を持つ六価クロムの含有量を検査します。火葬場の耐熱ステンレスと耐火煉瓦から放出されて遺骨に吸着するんです」(甲斐氏)  濁った水につけた試薬は赤く変色。環境基準を上回る六価クロムが含まれていることを意味する。 「粉骨して土に撒くのであれば、有機質の土壌だと六価クロムは無害な三価クロムへと自然と変わります。しかし、海はアルカリ性で中和できない。だから、海洋散骨する場合は、無害化する必要がある。回りまわって、発がん性物質を含んだ状態の遺骨を海に撒くのは好ましいことではない」(同)  乾燥機にかけたら、いよいよ粉骨だ。磁石を片手に、遺骨から異物を取り除く。棺桶に使用された釘などを取り除くためだ。そのほかにも指輪や金歯、インプラントに使用された金属などが混ざっていることも。  異物を取り除いた後、遺骨を乳鉢に移したら、ひたすら手作業で骨をすりつぶしていく。料金はサイズによるが、最高で3万5千円。機械で粉骨する場合は洗骨込みで3万2千円からだ。  こうした粉骨業者は需要の増加とともに、近年急増している。手作業で行うなら、ヤフオクで2万円も出せば、乳鉢などをそろえることができるという。そのため、マンションの一室で粉骨を副業のように行っている業者も。おのずと、六価クロムの無害化をせず、ただ粉骨するだけの業者もいるという。無害化は自主ルールにすぎないのだ。  海に散骨する業者も乱立し始めている。甲斐氏から依頼を受けて時折、船を出している「ビッグタックマリンサービス」の船長が話す。 「需要が増えたことで、船を持っている葬儀屋が散骨を始めたり、遊漁船と契約して散骨に乗り出したりする業者も増えている。普段、船を泊めている港でも、プレジャーボートや、釣り具を持たない客を乗せた釣り船が沖合に向かう様子を頻繁に目にします」  その多くは、“違法操業”だ。商売で客を乗せて沖合で散骨する場合は、不定期航路事業の許可・登録が必要だ。釣り人を乗せて漁場へ行く遊漁船では旅客を伴う散骨はできない。船長は「白タク業者のようなもの」と言う。  ただし、抜け穴もある。「委託散骨」というかたちで、家族から遺骨を預かり、船舶業者が沖合で散骨する分には、不定期航路事業の許可・登録が不要。これらを取り締まる法律はない。そもそも海洋散骨を取り締まる法律はない。 「1987年に石原裕次郎さんが亡くなったとき、兄の慎太郎さんが『海を愛した弟の骨を海に撒きたい』と散骨を希望しましたが、当時は墓地埋葬法があるため、ダメだと考えられていました。91年に法務省が『葬送のための祭祀で節度を持って行われる限り違法ではない』という解釈を示して以降、散骨は自由にできるようになったんです」(島田氏)  もちろん、節度は求められる。近海には漁業権が設定されているため、静岡県熱海市では10キロ以上離れた海域で行うよう、ガイドラインを定めている。 「漁獲量の減少や後継者不足を受けて、漁協をあげて散骨事業を始めるところもある」(船長)  本誌は甲斐氏が行う海洋散骨の現場にも同行させてもらった。船長の船で30分ほどかけて茅ケ崎港から沖合10キロの地点へ。甲斐氏は一礼した後、水溶性の紙袋に包まれた遺骨を撒き、花びらと小瓶の日本酒を海に注いでいった。  わずかな船のエンジン音と波音に紛れて遺骨が散り散りになっていくさまは、少々はかない。だが、家族を連れ立って散骨する場合は、趣が一変するという。 「40代の息子さんを亡くした家族は、妹さんが『兄はゲームが好きだったから』とスーパーマリオのテーマソングをCDに入れて持参されました。静かな洋上でマリオの曲を大音量で流しながら、みんなでお兄さんの遺骨を撒いたんです。そのほかにも、『母が好きだったので』と家族みんなでドリカムの『決戦は金曜日』を合唱される家族もいました」(甲斐氏)  粉骨・散骨の需要は今後も増え続けると予想される。お墓を必要としない家族が増え続けているためだ。 「東京都の小平霊園では2012年度から共同で遺骨を埋葬する樹林墓地、14年度から個別に遺骨を埋葬する樹木墓地の募集を開始しましたが、その倍率は10倍を超えている」(島田氏)  だが、散骨は後になって大半の家族が後悔しがちな点は留意したい。 「散骨した家族の6割が後悔する。『少しでも遺骨を手元に残しておけばよかった』と。散骨してしまうと、故人と語らう場所を失ってしまうんです」(同)  まだまだ課題は多い。 ※週刊朝日  2019年8月16日‐23日合併号
週刊朝日 2019/08/19 07:00
石原裕次郎のプライベート音源「発見」 三十三回忌の7月17日にCD発売 
石原裕次郎のプライベート音源「発見」 三十三回忌の7月17日にCD発売 
石原裕次郎、渡哲也のプライベートのカラオケが録音されていたカセットテープなど 2枚組みCD「石原裕次郎・渡哲也 プライベート」のジャケット  1987年に52歳で亡くなった昭和を代表する大スター・石原裕次郎がカラオケを楽しむプライベート音源が見つかった。三十三回忌にあたる7月17日に渡哲也のプライベート音源とともに全32曲集録の2枚組みCDとしてテイチクエンタテインメントから発売される。  1982、83年に山梨県の山中湖の別荘で療養中にカラオケを楽しむ裕次郎の歌声がカセットテープに録音されていた。保管していた渡哲也のマネジャーが昨年暮れ、CDにダビングするために石原プロモーションに持ち込んだことで、存在が明らかになった。88年に渡が友人のスナックでカラオケを歌う音源も加えて、初公開のプライベート音源だけで構成されたCDが完成した。  タイトルは「石原裕次郎・渡哲也 プライベート」(税別3500円)。音源には歓声や拍手、会話も入っていて臨場感たっぷり。「旅姿三人男」「俺は待ってるぜ」「昭和たずねびと」「長崎は今日も雨だった」「岸壁の母」など15曲に加えて、60年の結婚披露宴で自ら歌った「想(おも)い出」も初収録された。  裕次郎の担当ディレクターで今回の企画にかかわった後藤武久さんは「カセットテープの音源を商品化してもいいのだろうかという思いはありましたが、大スターの裕次郎さん、渡さんがプライベートでもこんなに歌がうまくて、我々と同じようにお酒を飲んでカラオケを楽しんでいる。ファンの方にとって貴重な音源ですので、世に出すことにしました。よろこんでいただける商品になれば、うれしいです」と語った。  裕次郎は81年に解離性大動脈瘤の大手術を受けた。「早く元気になってください」という激励の意味を込めて開かれた療養中の別荘でのカラオケには、石原プロモーションの俳優、スタッフらが参加。電器店を営む知人がカセットテープに録音していたという。  後藤さんは歌手・裕次郎についてこう話した。 「日本で男性歌謡曲を広めた人。昔から『歌は語れ』と言われますが、言葉で言うのは簡単でも実際は難しい。じゃあどうするんだというのを身をもって実践したのが裕次郎さん。息を混ぜて歌う。ソフトな歌声、語り口はやわらかくて、人間味が出ている。(若い人たちにとっても)新鮮だと思います。いませんから、こういうふうに歌う人は。提供される曲には一切文句を言わなかった。『あとは任せといてくれ、おれは役者だから』と言うとき、セリフとしてこの歌を表現してみせる、というニュアンスがありました」  CD発売にあたって渡さんはこうコメントした。 「皆さんご存じのように裕次郎さんは大変お酒に強く、好きでした。裕次郎さんとお酒を酌み交わす機会も多く、よくお声が掛かりました。会社の付き合いや山中湖の別荘、自宅、忘年会等、一杯入ると、よく社歌と裕次郎さんが言っていた『岸壁の母』、また『旅姿三人男』等デュエットで歌ったり各自自慢ののどを披露したりしました。知人やスタッフも入って楽しいひと時を過ごし、大変良い思い出に成っております」  三十三回忌特別企画として、全身写真をプリントした縦180センチ×横60センチの特製布ポスターとセットで「石原裕次郎 ベストヒット20~フィナーレ~」(税別4630円)も17日に発売される。  また、同じ17日には「石原プロモーション50年史」の執筆などを手がけた娯楽映画研究家の佐藤利明さんが、裕次郎評伝の決定版ともいえる『石原裕次郎 昭和太陽伝』(税別3800円、アルファベータブックス)を出版する。  映像作品としては日活、石原プロモーションの計93本の映画が楽しめる隔週木曜日発売のDVD付きマガジン「石原裕次郎シアター DVDコレクション」(朝日新聞出版)の第54号「赤い波止場」(税別1657円)が25日に発売される。 (堀井正明) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2019/07/13 10:30
廃業覚悟も…名脇役・小野武彦を救ったのは倉本聰だった
廃業覚悟も…名脇役・小野武彦を救ったのは倉本聰だった
小野武彦(おの・たけひこ)/1942年、東京都生まれ。俳優座養成所を経て文学座へ。70年代から「大都会シリーズ」「前略おふくろ様II」などに出演。97年に「踊る大捜査線」のスリーアミーゴスが大人気に。現在もドラマ、映画、舞台で活躍中。公開中の映画「半世界」(阪本順治監督)にも出演 (撮影/小暮 誠) 小野武彦さん (撮影/小暮 誠)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。著名人に人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は俳優・小野武彦さんです。「大都会」や「踊る大捜査線」、「科捜研の女」などテレビドラマのイメージが強いかもしれませんが、実は舞台のキャリアは長く、今でもコンスタントに出演しています。映像と舞台は役者の両輪。名脇役の味わいの秘密に迫ります。 *  *  *  実は、役者を辞めようと思ったことがあったんです。結婚して長女が生まれたあと、1974年ごろかな。簡単に言うと仕事がなくて「これは限界かな」と思った。  うちでボーッとしているわけにもいかないから、東京郊外の不動産屋に勤めることにした。「じゃあ、来月からいらっしゃい」ってことになったんです。  よし新天地でやるか!と部屋で身辺整理をしていたら、電話がリーンとなった。倉本聰さんからだった。「おう、久しぶり。何しているんだ」「いや、ブラブラしています」って。「そうか、ブラブラしているなら、なんか考えるよ」と。  数日後にまた電話がかかってきて「ショーケン(萩原健一さん)の板前ものと、哲(渡哲也さん)の刑事ものがあるけど、どっちがやりたい?」って。役者を廃業しようと思っていたけど(笑)、田中絹代さんとはラストチャンスかな、と思って「じゃあ、ショーケンさんのほうで」と。  3日後に電話がかかってきて倉本さんが「ごめんごめん」って言われた。どちらもダメだったのか……と思うじゃないですか。そしたら「あのさ、哲のほうじゃダメ?」って。それが「大都会」です。だから倉本さんは恩人です。  当時「大都会」はみんなが見ていましたからね。駅で隠れてたばこを吸っていた高校生が、僕の顔を見て慌てて消す、なんて感じだった。 ――俳優の道に進んだのは、映画への憧れからだった。1942年、東京生まれ。家の近くに映画館や日活の撮影所があるという環境で育った。  ミーハーな中学生がカッコいい石原裕次郎さんに憧れました。当時は3本立てが多かったから、小津安二郎さんや黒澤明さんの映画も一緒に観ることができた。子どもながらに小津さんの映画には心引かれるものがありましたね。笠智衆さんを見ながら「あんなふうに大人になったら会社が終わったあと友達と待ち合わせて、一杯飲んでみたいなあ」なんて思っていました。  これは後になって知ったのですが、僕の祖父は読売新聞の演芸記者から始まり、シナリオや戯曲を書いていたとか。だから「役者になりたい」と言ったときも、あまり強固に反対されなかった。当時は作詞家だったので祖父の過去は意外でした。おやじは軍人だったけど、やっぱり芝居や俳句が好きだった。ただ二人とも「やる以上は一所懸命にやれ!」と言っていました。  学校の環境も影響した。玉川学園に通っていましたが、映画演劇関係者の子女が多かったんですよ。お父さんが美術家だったり、俳優さんだったり。ツテで日活の撮影所に出入りさせてもらったりもしていました。  実は小学校のとき、親に演劇部に入れられました。担任の先生が「引っ込み思案なところがあるので、人前で何かやらせたほうがいい」って。小学校6年くらいまで、いい役に抜擢されていたけど、6年生のときにすごく芝居のうまい転校生が1学年下に入ってきた。そのときに「これからはこいつだな」って予感がした(笑)。  それが案の定で、後の浜田光夫。吉永小百合さんの相手役をたくさん務めた役者ですよ。「僕も石原裕次郎さん好きなので日活に連れてってください」って言われて、連れてったら3カ月後に向こうがデビューしていましたからね(笑)。 ――子供心にちょっとした挫折を感じ、いったんは、その世界から遠ざかる。本格的に俳優を目指すようになったのは大学進学後。劇団の養成所に入り、芝居にのめりこんでいく。  大学の同級生が俳優座の養成所の試験を受けて受かったんです。彼が「来年受けてみれば?」って言ってくれて、大学2年で受けて受かった。そこから「芝居」を真剣に考えはじめたんです。  俳優座の養成所の同期は、地井武男に原田芳雄たち。授業の終わりには仲代達矢さんや市原悦子さんの稽古を観ることができて、芝居を作るおもしろさを知っていくんです。  実技の授業では何人かで同じテーマの短いエチュードを作って競い合うんです。なんとかおもしろいものを作ろう、と刺激し合ってね。前田吟なんてモジモジしたところが一切なくて、潔く「バーン!」とやるからね、そういうのに刺激されるんです。ライバルっていえばライバルだけど、でも楽しかったですね。  大学は中退しました。養成所を出た後、俳優座ではなく、文学座に入りました。当時、文学座は、分裂騒動があって男優が少ない。俳優座には男優が大勢いて、文学座には30人くらい。文学座のほうがチャンスがあるかな!って(笑)。  そもそも俳優座で進路面談してくれた人に「小野君は文学座のほうが合うと思う」と言われたんです。(文学座の)杉村春子先生も大好きだったし、「あ、いいかも」と。  でもねえ、あるとき、「セリフが覚えにくいなあ」ってチラッとつぶやいたら、杉村先生に聞かれてしまって怒られましたよ。「小野さん! あなた、千回やった? 千回やったら、覚えられるわよ!」って。 ――舞台デビューと同時にテレビからも声がかかるようになった。74年放送のNHK大河ドラマ「勝海舟」にも出演。この脚本を書いた倉本聰との出会いが大きな転機となった。  地井武男と2人でNHKの局内の喫茶店でお茶を飲んでいたら、角刈りの強面の人が近寄ってきて「ちょっといい?」。NHKのディレクターかな、って思ったら「倉本聰です」って。そのときまで僕、倉本さんの名前は知っていたけど顔は知らなかったんです。  声をかけられて、ええ?って思っていたら「来週からスケジュールどうなの? 君にピッタリの役があるけど」「あ、ちょうど大丈夫です!」って。ずっと大丈夫だったけど(笑)。倉本さんは大河ドラマ「勝海舟」の脚本を担当していた。で、「海軍伝習生・春山弁蔵」という僕が主役の回も書いてくださいました。  これが倉本さんとの出会いです。その後も「大都会」をはじめ、目をかけてくださいましたが、本当にありがたいことでした。 ――映像と舞台。似て非なるものといわれるが、現場ではあまたの才能が交錯した。小野も両方の経験を積み、それぞれの道で開花していった。 「勝海舟」の後、倉本さんはフジテレビで連続ドラマ「6羽のかもめ」っていうのを書いたんです。これ名作ですよ。高橋英樹さんや淡島千景さんが出てらした。僕も出演させてもらいました。  そのドラマには、演出家の蜷川幸雄さんも出ていました。あの方は「自分は演技が下手だった」って言っていたけど、僕は割と好きでしたね。なんか「質感」がありましたね。社会性があるっていうか、その時代の、そのシチュエーションにちゃんと存在している人、というか。読解力のある人だからね。そうこうしているうちに演出家として有名になっちゃったけど。  映像はやっぱり監督のものですからね。映像のときは、素直に監督に預ける。「お任せします」って感じです。右に行け、と言われれば、行きにくくても行こう、という。そうすると、後で見ると「なるほどね」って思う。  対して、演劇は生身の人間がやるから、疑問を抱えたまま舞台に出ると、そのままお客に見えちゃう。そこを納得するために、演出家に質問したり、共演者に相談したりしながら創っていく。 ――97年、「踊る大捜査線」でコミカルでとぼけた刑事課長を演じ、北村総一朗、斉藤暁とともに「スリーアミーゴス」と呼ばれる名物トリオが生まれた。踊る大捜査線シリーズ以外のテレビ番組やCMにも出演するほどの人気となった。3人は偶然にも舞台出身。その誕生秘話を知れば、人気は必然だったと思えてくる。  あんな人気になると予想してなかったけどね。演出の本広(克行)さんがある回の、冒頭のシーンで事件の戒名(「○○殺人事件」などの名前)をつけるくだりを「3人でカットがかかるまでつないでください」って。まったくのアドリブです。  スリーアミーゴスは3人とも舞台出身者ですが、僕らはドラマのなかで笑いの要素も求められているなと感じて、台本に書かれていない部分まで想像していました。演じるキャラクターはどのあたりに住んでいて、どんな店に飲みに行っているのかなどなど、人物の背景を3人それぞれが作っていた。だから、突然「つないで」と言われても、アドリブで、あうんの呼吸でできた。  うそでしょ?というくらい、カットがかからなかったけど、延々とつないだ。「まさかこんなの使わないよね」って言っていたら使われて、それが「おもしろい」となったんです。  その後も、出前を食べるシーンでカットがかからないと、北村さんが「あれ? カレーの店変えた?」って言えば、僕が「はい、『チェリー』に変えました」とか適当な名前を返したりしてね(笑)。そんなやりとりがポコポコ出てきたんだよね。  去年、本広さんと対談で当時を振り返ったら、あのときはスペシャル版で「17分延ばしてくれ」って言われていたらしい。だから延ばせる可能性があるところは全部延ばしてみて、その結果、あの戒名のシーンが一番おもしろかったから全部使った、と仰っていました(笑)。 ――76歳のいまも多くのドラマ、舞台でさまざまな役を演じ続けている。  昔よりはね、若干セリフ覚えも悪くなっていますが、でもそれはいくらでも手だてがある。いまだにおかげさまで健康なので、まだまだ役者を続けていきますよ。 (聞き手/中村千晶) ※週刊朝日  2019年3月1日号
週刊朝日 2019/02/24 07:00
俳優・宍戸錠が思うB級とA級の違い 今いちばんの“名優”とは?
俳優・宍戸錠が思うB級とA級の違い 今いちばんの“名優”とは?
宍戸 錠(ししど・じょう)/1933年、大阪府生まれ。東京大空襲で、宮城県に疎開。54年に日活ニューフェース(第1期)に合格して映画俳優に。「早射ち野郎」「拳銃(コルト)は俺のパスポート」「殺しの烙印」など多数の作品に出演。クセのある悪役を演じて人気を集めた。テレビでも、ドラマや「元祖どっきりカメラ」等のバラエティー番組などで幅広く活躍。著書に『シシド 小説・日活撮影所』『同 完結編』。自伝的小説で、日本映画の黄金時代を当事者が描いた作品として評価が高い (撮影/写真部・小原雄輝) 宍戸 錠さん (撮影/写真部・小原雄輝)  あのとき、別の選択をしていたら──。著名人に人生の岐路を振り返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は俳優の宍戸錠さんです。石原裕次郎さんや小林旭さんらと日活アクション映画の黄金時代を築きました。誇りをもって自らを「B級俳優」と呼ぶ宍戸さん。個性派スターの生き様に迫りました。 *  *  * 「B級俳優」としてのこだわりとか哲学とか、そういう難しい話があるわけじゃない。 「A級」は、何もしなくてもドンと構えていればスターになれる。兄の石原慎太郎に連れられて、チャンユー(石原裕次郎)が初めて撮影所にやってきたときに、こいつはスターになるなってひと目見て確信したね。足は長いし、立ってるだけでオーラがある。  だけど「B級」はそうじゃない。何としても「A級」になってやるという気持ちが必要だ。そのためには、整形のひとつやふたつどうってことない。  主役もやったけど、だからって「オレはA級俳優なんだ」ってふんぞり返る気はなかった。「B級」としてあれこれやり続けてきたから、この仕事を楽しめたんだ。だから、その言い方が好きなんだろうな。 「俳優」は、人に非ず、人を憂えると書く。世の中に求められる役を演じて、人間のいろんな面を表現していく。それが俳優の仕事なんだ。俺は自分にできることを、せいいっぱいやってきた。ほっぺたをふくらませたりしぼませたりしながらね。 ――1933年に大阪で生まれた宍戸。父親が事業に成功したおかげで、幼いころは東京の大邸宅で裕福な生活を送っていた。だが、東京大空襲ですべて焼失。そんな宍戸の俳優人生は、戦後の日活の映画製作再開とともに始まった。54年、新人俳優を募集した第1期日活ニューフェースに合格した。  漠然と俳優になりたいと日芸(日本大学芸術学部)の演劇科に入ったはいいけど、なんか物足りない。仲間と芝居のまねごとみたいなことをしていても、こんなことやってていいのかともどかしい気持ちがあった。  新聞でニューフェースのことを知ったのは、大学2年の冬だった。見た瞬間に、よし受けようと決めた。当時の日活は、製作再開に向け、撮影所もまだ建設中だったんだ。第1期っていうのが、またいいよな。うるさい先輩はいないってことだ。  最終面接っていうのかな、最後に何人かが社長室に集められた。俺は社長に聞いてやったんだ。「この中で誰がいちばんいい」って。そしたら「おまえだ」って言ってたな。いや、それなりに緊張はしてたけど、一発かましておかないとね。  それが功を奏したのか、いや、控えめな態度を取っていても受かったと思うけど、とにかく合格した。大学なんてすぐ辞めたよ。あとで聞いたら、8千人の応募があったらしい。合格者は男子8人、女子13人で合わせて21人だった。  審査員に見る目がなかったら落ちてたかもしれないけど、でも、松竹や東宝に入って俳優をやってる自分は想像できない。肌が合わなかっただろうな。審査員がどうとかじゃなくて、俺は日活に受かって俳優をやる運命だったんだ。 ――日活に入った当初は、端正な顔立ちを生かした二枚目路線。だが、その路線では伸び悩んだ。そこで宍戸は、人生の針路を変えるべく舵を切った。日活に入って3年目、美容整形手術で頬をふくらませ、二枚目とは自ら決別したのだ。  昔から「第三の男」のオーソン・ウェルズみたいなアクの強い顔に憧れてた。ハーフだったらきれいなだけの顔立ちでいいだろう。だけど自分の持ち味はそこじゃないし、こぎれいな優男では一般大衆にウケない。自分には“何か”が必要だった。  もちろん、会社には内緒だよ。新聞広告で見つけたビルの一室にあった病院で、ほっぺたにオルガノーゲンという物質を注入してもらった。一回じゃ物足りなかったから、ちょっとしてからもう一回追加で入れたんだよな。  そりゃあ、病院のドアをノックするまでは迷ったよ。ビルの前を通り過ぎては、戻ったりしてね。でも、このままじゃ自分は俳優として長生きできない、主役にはなれないと思ってた。医者にも「美男子だから、そのままでいい」って反対されたんだけど、俺はやるって決めたんだ。  俺はいい俳優になるためにやったんだ。美人になりたくてやる美容整形とは違う。「役者魂だ」とホメてくれる人もいたけど、「男のくせに美容整形なんて」と陰口をたたくヤツもいて、世間の批判も受けた。称賛よりも否定的な声のほうが多かったかな。  あのとき、手術していなかったら、もしもの話はよくわからないけど、きっと別の方法を考えてたと思う。特徴のない半端な二枚目のままじゃ、すぐポシャってたのは確かだね。 ――ふくらんだ頬は宍戸のトレードマークとなり、小林旭の渡り鳥シリーズの殺し屋役などで存在感を発揮した。「エースのジョー」という愛称も定着。宍戸、石原、小林、和田浩治、赤木圭一郎の5人はダイヤモンドラインと呼ばれ、日活のアクション映画は人気を博した。宍戸の華麗な銃さばきは、「早射ち世界第3位、0.65秒」という触れ込みだった。  宣伝部のヤツが考えたんだけど、うまいこと言うよね。根拠なんてないよ。ストップウォッチで計ったこともない。映画に大切なのは、リアルじゃなくてリアリティーだ。  でも、日本の俳優の中で、俺が誰よりもガンアクションが得意だったのは確かだぜ。ずいぶん練習したもんだ。どう扱えばカッコよく見えるか、鏡に映してあれこれ試しながらね。  当時の日活は、俳優もスタッフもみんな若かった。撮影現場も仕事っていうより、スポーツチームの合宿みたいな雰囲気があったね。監督にも、言いたいことを言ってた。そんな「日活らしさ」は、考えてみたら俺たち1期生が作ったわけだけどな。  例えば、指を左右に動かして、舌を鳴らして「チッチッチ」とやる動作。ああいうのも自分で考えて、監督さんに「こういうのはどうでしょう」って提案していく。それがいいとなったら、次からは脚本に「チッチッチ」って書いてあるんだ。映画の世界がイキイキしてて、毎日が面白かったな。  7年目の61年に、ようやく主役が回ってきた。「ろくでなし稼業」っていう映画なんだけど、自分の顔をいじるようなろくでなしにはピッタリってことかな。アハハ。なかなか好評で、続編も何本かできたんだぜ。誰かが数えてくれたんだけど、主演作は54本あるらしい。  主役をやるようになる前に、アキラやチャンユーといった後輩が人気スターになっていた。そのうち自分にも回ってくるだろうと思っていたから、嫉妬はなかったね。芸能界で嫉妬したらそれっきり。俺はシシド錠で、シット錠じゃない。  ヤツらが日活を引っ張って、映画という娯楽の王様を盛り上げてくれたから、俺たちも楽しく俳優をやっていられた。それに、映画はひとりじゃできない。脇を固めてる俺たちも同じ映画俳優だし、いっしょに作品を作ってる仲間だ。何なら、俺が脇をやってるから、このシャシンはしまってるんだ、自分がいなかったら成り立たないんだ、ぐらいのことを思ってたね。  さんざん脇をやったおかげで、自分が主役をやるときも、脇の人の気持ちがわかったっていうのはあるかもしれない。主役だから気分が違うとか、演技が変わるとか、そういうことはなかったなあ。ただ、客が入らないと主役の責任になる。そこは強く感じたね。 ――その後、映画俳優としてだけでなく、テレビの世界でも活躍した。バラエティー番組やコメディー映画で「エースのジョー」を自らネタにすることもあった。 「オレはこう見えても、チャンユーやアキラとやりあってたんだ」っていうセリフを俺から提案したこともあったよ。マカロニウエスタン風の衣装を着てね。自分が宍戸錠だってことを遊んでたんだな。  テレビの仕事も楽しかった。ドラマもバラエティーもね。そりゃ、やり方の違いに戸惑うこともあったけどな。俳優は、与えられた場で見る人を楽しませるのが仕事だ。  日活が、というより日本映画が元気がなくなって、テレビが「娯楽の王様」になったけど、テレビでドラマを見ても、みんなうまくないなあって思っちゃう。俺が今、いちばんの“名優”だと思っているのは、「ミヤネ屋」の司会者の宮根誠司だね。あいつの番組は、見ていて楽しいし、コマーシャルもたくさん入ってる。ヤツは客が呼べる俳優だね。 ――現在85歳。65年の俳優人生を振り返って、やり残したことを聞いた。  今の映画の世界や後輩の俳優たちに、そりゃあ、思うところはたくさんある。今は映画を作るのが難しい時代だ、なんて言ってても仕方ない。これまでだって楽に作れた時代なんてないんだ。日活のいいときも悪いときも見てきた俺は、そう思うね。  もう今は、ほっぺたには何も入ってない。2001年に、テレビカメラに見守られながら除去手術をやった。21世紀になったことだし、普通の顔の老人として生きてみたくなったんだ。ほっぺたがふくらんだ顔に、ちょっと飽きたってのもあるしな。  人生を振り返って満足かどうかなんて、まだ死んだわけじゃないから、それはわからないな。けど、夢があるんだ。それは、90歳で殺し屋の役をやること。俺は、殺し屋を演じることにずっとこだわってきた。最後に出る作品で、殺し屋をやりたい。  殺す相手は自分じゃないかって。ハハハ、それもシャレがきいてていいかもな。 (聞き手/石原壮一郎) ※週刊朝日  2019年2月8日号
週刊朝日 2019/02/05 11:30
ミッツ・マングローブ「憧れではなくネタ。悲しき慶應の象徴力」
ミッツ・マングローブ ミッツ・マングローブ
ミッツ・マングローブ「憧れではなくネタ。悲しき慶應の象徴力」
ミッツ・マングローブ/1975年、横浜市生まれ。慶應義塾大学卒業後、英国留学を経て2000年にドラァグクイーンとしてデビュー。現在「スポーツ酒場~語り亭~」「5時に夢中!」などのテレビ番組に出演中。音楽ユニット「星屑スキャット」としても活動する 写真はイメージです (c)朝日新聞社  ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、「慶応ブランド」を取り上げる。 *  *  *  良くも悪くも『慶応ブランド』なんてものは、昭和の時代から幾度となく持て囃され、“こすり”続けられてきた結果、今や完全に形骸化した幻想(ファンタジー)の賜物でしかないと思っていました。野球の早慶戦しかり、政界・財界・医学界における学閥しかり、石原裕次郎に代表される慶応ボーイしかり、確たる伝統や効力はあるにせよ、甚だ時代遅れなイケイケ感満載です。そしてここへ来て、悪目立ちばかりすることが多い慶応……。縦の繋がり横の繋がりともに“最強の切り札”として、この学歴国家で幅を利かせてきた「大学は慶応です」というフレーズが、いよいよギャグになる日は近い?  東大や京大や藝大が日本人にとっての『学歴の極み』であるように、『慶応』もまたある種、日本人の価値観“そのもの”として存在してきました。かく言う私もその価値観の中で育ち慶応を出た人間です。創設者・福沢諭吉による有名な一節は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」ですが、その後には「されど学や経験を身につけておかなければ、この世の格差は渡っていけない」と続きます。オイシイところは持っていく洗練されたフットワークと潰しの利く要領の良さ。そんな根拠無き自己暗示を継承し、印象づけることによって、慶応の漠然たる神話性は現在に至ります。もちろん多分野にわたり結果や人材が輩出していることには変わりありませんが、もはや『慶応』は芸やネタの域に入ったと言ってよいでしょう。  私はテレビの世界でそれを最も体感した人間のひとりです。私が在学していた当時も、すでにそこまで特別なものではなくなっていた『慶応ブランド』に、よもや30歳を過ぎてこんなにも恩恵を受けるとは思ってもいませんでした。何が凄いのかは分からなくても、とりあえず「一流!」「優秀!」「もったいない!」といった単純明快なリアクションに繋がる「慶応卒」の三文字は、女装したオカマにとって、踊ったり歌ったりするよりも遥かに有効な芸でありキャッチーなネタだったのです。もし私が慶応を出ていなかったらこの週刊朝日の連載もなかったでしょうし、頑張って卒業してよかった。  ちなみに、私の『慶応卒』がネタとして成立した背景には、この国の『肩書&キャッチフレーズ至上主義』の激化があります。ジャンルやカテゴリーは多様化し、クオリティや技術は進化する一方で、人も物も事象も歴史も、本質はおろか“あらすじ”さえ見る気がないのが今の世の中です。「売れる本は目次で決まる」とか「サビから始まらない曲は売れない」なんて鉄則が蔓延し、イケメンや一発ギャグや格言が乱立し、勝負の決め手はSNS映えするかどうか。そう考えると、実はその長い歴史において、今ほど『慶応ボーイ』の肩書が有効な時代はないのかもしれません。JUNONボーイしかり。  それはそうと、慶応と海外旅行は似ています。昔は『憧れ』を含んだ特別感がありましたが、今となっては誰だって手の届くカジュアルな存在。だけどその言葉を聞くと条件反射で「すごーい!」と言ってしまう。さしずめ『ミスター慶応』なんて、格安弾丸ツアーに行きまくる自撮りの達人みたいなものです。もちろんそんな人たちばかりではない良い学校ですよ。あと、正しくは『慶応』じゃなく『慶應』です。 ※週刊朝日  2018年11月2日号
ミッツ・マングローブ
週刊朝日 2018/10/31 16:00
松岡昌宏はLINEもメールも使わない アナログにこだわる理由
松岡昌宏はLINEもメールも使わない アナログにこだわる理由
松岡昌宏はLINEもメールも使わない?(※写真はイメージ)  バンドや俳優、バラエティーに至るまで幅広く活躍中のTOKIOの松岡昌宏さん。バンド活動のきっかけやアナログ好きなことなど、作家の林真理子さんがその素顔に迫りました。 *  *  * 松岡:僕はいまだにガラケーなんで、何も見られないんですよ。 林:スマホ、使わないんですか。 松岡:使わないんじゃなくて、使えないんです。 林:友達に「LINEしてくれよ」とか言われたりしません? 松岡:「やってないからできない。ショートメールしてよ」って言います。音楽スタッフからは、「データを送りたいから持ってくれ」と言われますが、「いいよ。CD持ってきてよ」って。 林:私の周り、スマホ持ってないオジサンが多いから、私もガラケーやめられないんです。 松岡:僕もそういうオジサンの一人です(笑)。唐沢(寿明)さんとよく飲みに行くんですが、「おまえ、いい加減にしろ」って言われます。店のデータを送れないから面倒だって。住所さえ教えてもらえれば、勝手に調べて行くんですけどね。 林:パソコンは? 松岡:できません。メールじゃなくて手紙だし、スケジュールもいまだにマネジャーに書いてもらってます。以前、漫画のあとがきを書かせてもらったときも、原稿用紙に手書きしました。 林:ほんとに? 私もいまだに原稿は手書きなんです。松岡さんみたいに最先端の音楽やファッションをなさる方がアナログ好きって、なんだかうれしいな。 松岡:血が通ってないのはダメなんですよ。なんだったら黒電話から始めるか、ぐらいの気持ちで(笑)。 林:でも今は、音楽の世界こそ全部デジタルですよね。作曲もパソコンでやるんでしょう? 松岡:僕はぜんぜんついていけてなくて、スタジオで音楽プロデューサーに「ここはこうやって」って言いながら音入れしてます。長瀬(智也)はすごいですよ。そのまま販売できるんじゃないかってぐらい、完璧なデモテープを作ってきますから。 林:TOKIOのメンバーの中でも、音楽の作り方はそれぞれなんですね。 松岡:バラバラです。僕は打楽器なのでメロディー弾けないし、全部口で説明して、そこに“塩コショウ”していく感じですね。 林:松岡さん、ドラマーになるべくして生まれたという感じですよ。石原裕次郎さんの時代からドラマーってカッコいい人と決まってて、ソロのときみんな「キャーッ」って言うじゃないですか。 松岡:自分みたいなタイプはドラムでよかったと思います。ギターだったら途中で折るわ、客席に飛び込むわ、メチャメチャなことになってたと思うんで(笑)。 林:「ジャニーズに入ったとき、バンドをやらされてびっくりした」とおっしゃっているのを何かで読んだ記憶があるんですが。 松岡:逆です。僕らは踊りのグループだったんですけど、城島(茂)と山口(達也)がバンドをやってたんです。「スタジオに練習に行く」と言うから連れていってもらって、ドラムがあったから練習を始めたのがきっかけです。14歳でした。昔、親父が横浜のライブハウスでドラムをたたいてる写真が家にあったことを思い出しましたね。そこからバンドでデビューさせてもらうことになったんです。 (構成/本誌・野村美絵) ※週刊朝日 2018年3月2日号より抜粋
週刊朝日 2018/02/27 11:30
今なお残る本人のボトルも…黒澤明が愛した“贔屓”の5店
今なお残る本人のボトルも…黒澤明が愛した“贔屓”の5店
「元町 梅林」では、黒澤明が好んだメニューが今でも楽しめる(撮影/写真部・小原雄輝)  映画監督・黒澤明がこの世を去って20年。「天才」「完璧主義者」「天皇」と呼ばれた“世界のクロサワ”は、俳優の演技や映画美術だけでなく「食」の世界にもこだわりを見せた。その舌を納得させた名店を紹介する。 *価格はすべて税込み ■元町 梅林 映画が完成した際の打ち上げや、忘年会など、大人数で集まる際に必ず使った店。今でも「数の子の醤油漬け」「和牛ステーキ」「たらこコロッケ」など、好物を並べたコース(時期によってメニュー変更あり。要予約。1万4040円)が食べられる。自宅に料理を作りにいくこともあったというご主人の平尾国男さんによると「お酒は必ずホワイトホース。監督が亡くなって20年経ちますが、その時の一本が、まだ残っています」 神奈川県横浜市中区元町1-55/営業時間:13:00~15:00、17:00~19:00、19:30~22:00/定休日:月(祝日の場合は営業) ■おかめ 監督デビュー作「姿三四郎」を激賞したのが、日本が誇る名監督・小津安二郎。その小津が常連だったとして有名なこのてんぷら店に、映画関係者と一緒に訪れていた。敬愛する先輩監督の「お気に入り」の店だからか、「こうしてくれ、ああしてくれといった注文はほとんどなかったと思う」(店主・柴田雅夫さん)。いつもカウンターの席に座って、前店主(現店主の父)がてんぷらを揚げる様子を興味深そうに眺めていたという 東京都中央区築地2-12-2/営18:00~22:30/定休日:日・祝 ■とんかつ 椿 東宝の撮影所があった成城学園前の静かな住宅街にある、地元ではよく知られたとんかつ屋。黒澤も自宅が近かったためか、家族やスタッフとよく立ち寄った。カウンターに座って、ご主人と話しながら頼むのは、いつも「ヒレカツ」。粒が大きめの特製パン粉と、特製ソースで食べるとんかつは、食べ応え十分。ご主人に、足しげく通ってきた理由を尋ねると、「おいしかったからでしょう」と自信たっぷりに答えてくれた 東京都世田谷区成城5-15-3/営業時間:火~土11:30~14:00、17:00~20:00(L.O.)、日・祝11:30~20:00(L.O.)/定休日:月(祝日の場合は営業、翌火が休み) ■川魚料理 柳水亭 川甚 昭和初期の下町情緒がいまでも残る柴又。帝釈天の裏の江戸川沿いに佇む創業228年の老舗料亭のすぐ前には、1960年頃までは「整備されていなかったので、昔のまま、野原がただ広がっていた」(支配人・天宮純也さん)。そのため、時代劇の撮影によく使われたようで、黒澤組も撮影休憩でこの店を訪れ、名物のうなぎや鯉料理に舌鼓を打った。店内には、千秋実、志村喬ら黒澤映画常連の俳優陣と共にしたためられた本人直筆の書が残る 東京都葛飾区柴又7-19-14/営業時間:平日11:00~15:00、17:00~21:00、土日祝11:00~21:00*17:00以降は要予約/定休日:水 ■キッチン・ボン 1955年にオープンした、日本の洋食レストランの草分け的存在。美空ひばり、石原裕次郎など、そうそうたる面々が常連で、黒澤も度々訪れていた。店主の須田紘光さんが、いまでも覚えているのが、「食べ終わると、帽子を外して『ありがとう』って感じよく挨拶して、さっと帰っていった」姿。撮影現場での厳しい様子は微塵も感じなかったそう。創業当時のレシピそのままのタンシチューが、特にお気に入りだった 東京都渋谷区恵比寿西1-3-11 belle恵比寿1F/営業時間: 12:05~13:30、18:05~20:15/定休日:水、第3木 (取材・文/本誌・工藤早春) ※週刊朝日 2018年2月2日号
グルメ
週刊朝日 2018/01/30 11:30
向谷実が選ぶ昭和の鉄道「東京五輪を前に電車も街もカラフルになった」
向谷実 向谷実
向谷実が選ぶ昭和の鉄道「東京五輪を前に電車も街もカラフルになった」
勢ぞろいした4色の電車。左から京浜東北線、総武線、山手線、中央線。「アサヒグラフ」(1965年12月3日号)より (C)朝日新聞社 向谷実(むかいや・みのる)/1956年、東京都生まれ。77年に「カシオペア」のキーボーディストとしてデビュー。95年に世界初の実写版鉄道シミュレーションゲームを発売。鉄道各社に技術を評価され、運転士の教育用シミュレーターなども開発する  2020年の東京オリンピック開催まで、あと3年を切ろうとしている。53年前の東京五輪は日本に何をもたらしたのか。朝日新聞社が1923(大正12)年から2000(平成12)年まで発行していたグラフ誌「アサヒグラフ」が報じた写真の中から、鉄道音楽家として活躍する向谷実さんの記憶に残るオリンピックと鉄道、そして高度経済成長期の日本について語ってもらった。 *  *  *  小さいころから、よく切符を収集していました。最近事務所の移転があり、昔集めた切符の整理をしていると、昭和39年発行のものが多くありました。このころ何があったのか。西暦にするとわかりやすいかもしれません。1964年、この年の10月に東海道新幹線が開業し、そして東京オリンピックが開かれました。  僕は1956年生まれで、オリンピックの年には8歳でした。まだ幼い子どもでしたが、オリンピックに向け東京の街、日本の社会全体が明るくファッション化していく様子は覚えています。それまでは、ロゴマークというもの自体をあまり見たことがなかったのですが、「東京オリンピック」というカラフルなロゴマークを街中で見かけるようになりました。ものすごくデザイナブルで、綺麗でかっこいいと思った記憶があります。当時は高度経済成長期真っ只中。街並みだけでなく、テレビも白黒からそろそろカラーになり、社会全体がカラフルになっていたのではないでしょうか。手元には東京オリンピックを記念する切符がありますが、どれもカラー刷りで、古さを感じさせません。  実はこのころから、電車もカラフルになりました。最も印象的なのは1963年に登場した国鉄103系電車でした。この時に現在に至る路線別のカラーというものが確立しました。山手線だとウグイス色、中央線のオレンジ色、総武緩行線のカナリア色、京浜東北線のスカイブルーといったものですね。国鉄103系は101系をベースに改良したものなのですが、この電車の登場も衝撃的でした。101系は「新性能電車」と呼ばれており、それまでの電車が低いうなり声をあげるような音を出す、吊りかけ式モーターだったものが、カルダン式駆動という新しいタイプのモーターに変わりました。電車が動く時の音の違いに感動した思い出があります。さらにドアの開閉もそれまでは片扉がほとんどだったのですが、101系からは両開きが主流になりました。  それまで、国鉄の車両の色は「ぶどう色2号」と呼ばれる、茶色い武骨な色が主流でした。当時は写真にもカラーフィルムが登場していましたが、モノクロで撮ってもカラーで撮ってもあまり違いません。当時まだ主流だった蒸気機関車がその最たるものですね。プレートが金色なので、そこだけはカラーで撮ると違いが出ますが、かえってモノクロで撮ったほうが味が出る気がします。このように、モノクロが主流だった車体に、101系の登場によって、オレンジやカナリアといった色がつくようになりました。初めて見た時、なんてカラーリングが綺麗なんだろうと感動したものです。  このように明るい色が車体に塗られるようになったのは、1950年の東海道線の「湘南色」が始まりではないでしょうか。これは濃いオレンジと濃いグリーンのツートンカラーで、現在の東海道線の路線カラーにもなっています。当時東京から小田原方面に向かう東海道線は「湘南電車」と呼ばれ、石原裕次郎や加山雄三といった大スターに影響を受けた「太陽族」に人気でした。世代としては僕よりも少し上にあたりますが、小さいころの記憶として鮮明に残っています。  鉄道だけでなく、東京の道路事情もオリンピックを機に変わりました。僕は世田谷区の二子玉川というところに住んでいたのですが、僕の住んでいたところでも国道246号が拡幅し、環状7号線がつくられました。マイカーブームが起き、自動車の台数も増えました。オリンピック後、自動車は増え続け、渋滞が問題視されるようになりました。  そんな中、スペースを占拠する路面電車は次第に敵視されるようになっていきました。もちろん軌道の上を自動車が走ることは可能なのですが、基本的にはそこの部分を撤去すれば道路はもっと広くなると考えられていました。そのほうが車はもっと楽に走れるし、バスも走れるというわけですね。  今の東急田園都市線の地上部分にあたる国道246号にも「玉川電車」(玉電)と呼ばれる路面電車が走っていましたが、玉電も例に漏れず、「ジャマ電」と呼ばれていました。結局、玉電はオリンピックから5年後の1969年5月に、首都高速3号渋谷線の工事等に伴い、現在残る三軒茶屋―下高井戸間を除いて廃止されることになりました。引退の時のイベントに僕も行きましたが、惜別の思いが強い人よりも、「ああこれで邪魔なのが消えた」と思っている人のほうが多かったように思います。高度経済成長期は明るい話題のほうが多いですが、この出来事は僕の中で負の象徴となる残念な思い出かもしれません。写真を見ると、鮮明によみがえってきますね。(構成/河嶌太郎)
向谷実鉄道
dot. 2017/07/14 00:00
日本もハリウッド方式に 伊武雅刀が映画の現場を語る
日本もハリウッド方式に 伊武雅刀が映画の現場を語る
伊武雅刀(いぶ・まさとう)/1949年、東京都生まれ。「宇宙戦艦ヤマト」シリーズのデスラー総統を演じたほか、ラジオ番組「スネークマンショー」などで人気を博し、その後、映画、ドラマ、ナレーションなど幅広く活躍。最近の出演作品は、映画では「セーラー服と機関銃-卒業-」「後妻業の女」「ミュージアム」など。ドラマでは「釣りバカ日誌Season2 新米社員 浜崎伝助」「精霊の守り人 悲しき破壊神」「べっぴんさん」など。現在放送中のドラマ「みをつくし料理帖」(NHK)にも出演している。(撮影/関口達朗)  渋い名脇役として映画やドラマで活躍し続ける伊武雅刀さん。しかし、意外な作品で主演を務めたこともあると、作家・林真理子さんとの対談で明かしてくれました。 *  *  * 林:伊武さんは最初から主役をあんまり望まなかったそうですね。 伊武:映画が小さいころから大好きで、いつか出たいと思ってたけど、憧れたのは主役のスターさんじゃなくて。条件的に俺だったらこのポジションだろうなと思うわけですよ。 林:石原裕次郎さんじゃなくて? 伊武:「足が長いな。無理だな」とか思って。宍戸錠さんとか成田三樹夫さんとか、脇役が好きで。小学校のときから好きだったのは、山形勲さんとか薄田研二さんとか月形龍之介さんとか……。まあ、月形さんは「水戸黄門」で主役をやっていましたけど、渋い脇が好きでしたね。 林:でも、伊武さんが主役の映画、なんかありましたよ、絶対。 伊武:実は映画で1本あるんですよ。にっかつロマンポルノ……。 林:えっ、ロマンポルノで主演したことあるんですか! 伊武:いや、日活がロマンポルノをやめて「ロッポニカ」というレーベルになって、その第1弾として2本撮ったんですよ。1本が神代辰巳監督の「噛む女」、もう一本が俺が主役の「メロドラマ」(1988年公開)という映画。 林:へえ~、そうだったんですか。 伊武:相手役が朝加真由美さんで、監督が小澤啓一さん。それが初めての主演映画でした。 林:テレビドラマでも、伊武さんが主役のものがあった気がしますけど。 伊武:BSのドラマでは主役をやっていますよ。このあいだは内田百間をやって、その前は森鴎外。そういうのは何本かあります。ただ、ゴールデンタイムではないですね。 林:最近、監督さんも年下ですか。 伊武:年下ですよ。 林:「なんでこんな撮り方をするんだろう」とか、「なんでこんな演出をするんだろう」とか思います? 伊武:でも、いい監督が出てきていますよ。以前「セーラー服と機関銃」のリメイク(「セーラー服と機関銃─卒業─」)を撮った前田弘二っていう監督も、若いけどいいんです。衣装合わせに行ったときにどの人が監督なんだろうと思ったら、助監督よりかなり若く見える方が「こんにちは。監督です」って言うから驚きました。でも、たまたまかもしれないけど、今まで「これダメだ」という若手の監督はいませんでした。 林:そうなんですか。 伊武:「キツツキと雨」(12年公開)というのも、沖田修一という若い監督だったんですけど、現場がすごくよかった。 林:どんな雰囲気だったんですか? 伊武:最初は「監督、どこにいるの?」って感じだったんですが、周りが「この監督が撮りたいようにどんどん協力してあげよう。この監督のためにみんなでいい作品にしよう」という気になっちゃうんです。 林:ほーお。 伊武:昔は映画監督に「なんだ、そんなつまんない要求をしてくるのか」と思うこともあったけど、今の若い監督は要求が的確ですよ。「すみません。もう一回お願いします」と言われてもいやな気がしなくて、「まだ欲しいものがあるんだな」と思ってみんなで頑張る。沖田監督は「横道世之介」もおもしろかった。 林:私も見ました。聞いた話ですけど、今の監督さんって、何台ものカメラで同時に撮るそうですね。 伊武:今、多いのは、たとえばこの対談のシーンなら、林さんのアップと引きと、さらに大きい引きを、3台のカメラで最初から最後まで撮っちゃうんです。そして今度はライティングを変えて、俺のアップと引きと、さらに大きい引きを撮って、今度は2人が話しているツーショットを横から撮る。それが主流なんですよ。ハリウッド方式というのかな。 林:俳優さん、緊張感を保つのが大変ですね。 伊武:何回もやらされてね。テンションが高いお芝居だと疲れちゃう。声がガラガラになっちゃうし。 林:そうですよね。 伊武:そうやって撮った素材を、今度はエディターが編集する。エディターの力で映画はどうにでもなっちゃうんですね。ハリウッドはそうですよ。そういう方法もあるけど、昔は、監督がイメージした映像があって、そのとおりに撮れたらオーケーという人が多かった。今でも京都の撮影所なんかに行くと、そういう撮り方をする監督さんがいますけど、時代が変わってきちゃったんですね。 ※週刊朝日 2017年6月16日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2017/06/12 16:00
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