「読んでから見るか、見てから読むか」の時代――角川映画40年
第2作「人間の証明」公開初日。東京・日比谷の映画館には朝早くから行列ができた(1977年) (c)朝日新聞社
「戦国自衛隊」撮影に使用した戦車が登場(1979年) (c)朝日新聞社
「読んでから見るか、見てから読むか」のコピーが映画館と書店を席巻した時代。
『角川映画1976─1986 増補版』(角川文庫)著者が解説する。
小説が映画化されることは昔からあった。出版社が映画部門を持つことも、岩波書店の「岩波映画」のように前例がある。
映画の主題歌のヒットも、大規模な宣伝も、新人女優の公募も、映画界では昔からあった。
ひとつひとつを見れば、「角川映画」には、何ら新しいものはなかった。アップルのiPhoneが出たときも、個々の技術に独創性はないと批判されたが、それと同じだ。既存のものを統合して「新しいもの」を作った点で、角川映画は、アップルと同じくらい、ユニークだったのだ。
角川書店の二代目社長・角川春樹が映画製作に乗り出したのは1976年の「犬神家の一族」からだ。しかし角川書店が「映像化によって原作の本が売れる」ことを実感したのはその7年前の69年だ。この年のNHKの大河ドラマは「天と地と」で、海音寺潮五郎の原作は角川書店から出ていた。当時、同社は経営不振に陥っていたが、『天と地と』がベストセラーになったことで立ち直った。
翌70年、角川は無名の作家エリック・シーガルの『ある愛の詩(うた)』の日本での版権を取得し翻訳出版すると、映画が大ヒットしたので、翻訳小説としては異例の100万部を超えるベストセラーとなった。
テレビドラマや映画がヒットすればその原作も売れる──そんなことは出版界の人間なら誰でも知っていた。だが、自分で映画化しようと考え、実行した出版人はいなかった。
角川春樹はそれをやってのけた。そして成功した。
角川映画が生んだ最大のスターとは、薬師丸ひろ子でも原田知世でもなく、角川春樹その人だった。
あの時代、そしていまにいたるまで、映画プロデューサー、あるいは出版社社長で角川春樹ほど知名度のある人はいない。講談社や小学館の社長の名は出版業界では知られていても、一般の人は知らない。しかし、角川春樹は有名だった。その点でも、角川はアップルのジョブズに先駆けている。
●本・映画・歌の三位一体
角川が映画作りを始めたのは、映画化することで原作の本を売るためだった。したがって、角川映画は、映画がヒットするだけでは成功ではなく、その原作も売れなければならない。
76年から80年までの「初期・大作時代」、映画の公開時、書店店頭にはその原作者の角川文庫が「横溝正史フェア」「森村誠一フェア」と銘打たれて並んだ。これらの「フェア」は、文庫を売るためのものであると同時に映画の宣伝でもあった。当時は全国に2万店以上の書店があり、それらが一瞬にして「角川映画宣伝の場」となったのだ。
文庫を売るために映画を作り、その映画の宣伝のために文庫を売る──目的と手段が渾然一体となったビジネスだった。
さらに主題歌を作って、それもヒットさせた。本と映画と主題歌の「三位一体」が完成したのが、2作目の「人間の証明」で、以後、角川映画では必ず主題歌も作られる。
こうして80年までに、横溝正史(『犬神家の一族』他)、森村誠一(『人間の証明』『野性の証明』)、高木彬光(『白昼の死角』)、半村良(『戦国自衛隊』)、大藪春彦(『蘇える金狼』『野獣死すべし』)、小松左京(『復活の日』)らのフェアが展開され、文庫は売れ、映画もヒットした。
●出版社ならではの方法
当時は「角川映画」という名の映画会社はなく、角川映画を製作していたのは「株式会社角川春樹事務所」という角川春樹の個人会社だった(現在の出版社「角川春樹事務所」とは別)。
かつて「映画会社」とは、撮影所を持ち、俳優も監督も、脚本家をはじめあらゆるスタッフも社員として抱えて映画を製作し、配給業務を行い、直営映画館を持ち、映画の「製造」「流通」「興行」の全てを担っていた。
しかし、70年代、この垂直統合型ビジネスは崩壊しつつあった。大手5社のうち、大映は倒産、日活はロマンポルノ路線へ切り替えた。いちはやく撮影所を切り離して子会社化した東宝が、最も経営が安定していた(この構造は現在も同じだ)。
一方、大スターや監督たちはフリーになり、自らプロダクションを設立して映画を作り続けた。しかし、いずれも経営危機に陥り、テレビ映画の製作を請け負うことで成り立っていた。
そんな時代に登場した角川春樹事務所は、その名の通り「事務所」しかない映画製作会社だった。黒澤明や石原裕次郎や三船敏郎たちのプロダクションとの根本的な違いがそこにあった。それは、おそらく、角川が「出版社」だったからだ。
出版社は大手ですら、作家を専属で抱えないし(漫画では専属制があるが)、印刷・製本は他社に外注し、流通も販売も他社に委ねる。オフィス以外は倉庫があるくらいで、「机と電話があればできる商売」と言われていた。角川はそれを映画作りでも応用したのである。撮影所を借り、監督以下のスタッフも俳優も一作ごとの契約で、配給会社も映画館も一作ごとに条件のいい所を選んだ。これも、自社工場を持たないアップルと似ている。
●テレビを見た後劇場へ
角川映画は大量にテレビでCMを打ったことで大成功し、同時に批判された。映画会社にとってテレビは客を奪った憎むべき敵だった。そこに金を払って宣伝するとはけしからんという、単なる感情論だった。しかし、角川が成功すると、各社ともテレビでCMを打つようになった。
公開から1年後、次の新作公開時に合わせてテレビで放映したことも、映画館からは反発を受けたが、続けた。結果として、テレビで映画を見た人が映画館へ押し寄せた。ビデオ化も早かった。既存の映画会社が映画館主に気兼ねしてできなかったことを角川映画は次々と断行した。
本も映画もヒットしていたが、作品ごとの映画の観客動員数と原作の実売部数を比較すれば、常に映画のほうが多かった。文庫を売るために作った映画のほうが、客は多かったのだ。その作家の他の本も売れることで、全体として利益を出していた。
そのビジネスモデルに綻びが生じてきたのが、80年の「復活の日」だった。製作費22億円に対し、配給収入が23億9500万円。配給会社が手数料を取るので、角川へ入ったのは、20億を割っていたはずだ。角川文庫の小松左京作品がその赤字を埋めるだけ売れれば総体としては利益が出たが、横溝正史や森村誠一ほどは売れなかった。
以後も映画製作は続けるが、大作は数年に一度となっていく。
「本を売るための映画」である以上、角川から出ていない本は映画にできない。『セーラー服と機関銃』は他社から出た本だったので映画化が危ぶまれたが、その版元にもロイヤルティを支払うことで、角川文庫から出して映画にした。
赤川次郎はこれをきっかけに大ベストセラー作家になり、薬師丸ひろ子は「時代のアイドル」となり、相米慎二は名監督となり、主題歌を作った来生たかおもブレイクした。「何も持たなかった」角川映画は薬師丸ひろ子や原田知世を専属にし、彼女たち中心のラインアップとし、またも成功した。
●製作委員会方式の元祖
しかし、薬師丸、原田が角川から独立していくと、陰りが出てきた。
起死回生を期して超大作「天と地と」を放ち、50億5千万円の配給収入を上げるも、製作費が52億円もかかったので利益は出ない。かつて大河ドラマ化で角川書店の救世主となった原作はこの時も売れたが、それ以外の海音寺潮五郎作品は売れず、角川の財務は傷んできた。
「天と地と」は、角川だけでは製作費が賄えないので、製作委員会方式が採られた。現在、ほとんどの映画が製作委員会方式で作られているが、これを本格的に始めたのも角川映画で、実弟の角川歴彦(つぐひこ)は自分のアイデアだったと語っている(現在、製作委員会方式は弊害が生じており、歴彦はそれも認識し、次の手を考えているようだ)。
歴彦は兄・春樹との考え方の相違から、92年秋に角川書店を去った。1年後に春樹が逮捕され社長を辞任すると、歴彦は復帰した。角川の映画作りは中断したが、95年にアニメで再開し、やがて大映まで買い取る。
角川グループは映画作りをしていたことで映像全般に強くなり、アニメ、ゲームへと事業は拡大していった。さらにはドワンゴと経営統合し、インターネット時代への対応も怠らない。
かつて映画会社はテレビを敵視した結果、衰退した。同じように、出版界はネットを敵視あるいは無視していたが、角川はいちはやくネットを取り込んでいく道を選んだ。
角川映画誕生から40年。時代は一周りした。次の時代もまた角川が先駆者なのだろうか。(本文中敬称略)
(編集者/作家・中川右介)
※AERA 2016年8月15日号
AERA
2016/08/14 16:00