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9月号朝日新聞国際報道部記者 峯村健司 Minemura Kenji中国ルポができた最後の特派員
「中国のゴビ砂漠のルポ、できないかな?」
今年3月、私が担当している朝日新聞の企画「米中争覇」の打ち合わせで先輩記者から予想外の発注を受けた。
古代中国シルクロードの要衝として栄えたオアシス都市・敦煌から西に約100キロのゴビ砂漠上に、米軍の嘉手納基地の滑走路や横須賀基地の艦艇に見立てた中国のミサイル実験場がある。それを追ってみないかとの打診だった。この目で現場を見てみたい衝動に駆られたが、断った。その直前、全国人民代表大会の取材で久々に北京を訪れ、変わり果てた中国の姿を目の当たりにしていたからだ。
その変貌ぶりは、北京国際空港に着いてすぐにわかった。入国審査場までの長い通路を歩いていると、奇妙な看板が目に入った。
「外国人専用レーン」
誘導線に従って進むと、前方に青い大型の機械が並んでいた。日本語のガイダンスに従って、すべての指を1本ずつガラスの画面に押しつけると次々に指紋が読み込まれていく。正面にある魚眼レンズのようなカメラがじっとこちらをみている。2018年春から導入された、指紋と顔画像を採取するシステムだ。短期旅行者を含む14~70歳の外国人が対象となる。体内から生体情報をすべて吸い取られるような薄気味悪さを感じた。
税関検査場を抜け、タクシー乗り場に向かうと、映画「ロボコップ」のようなスコープ付きのサングラスをかけた警察官たちが立っている。人工知能(AI)による顔認証システムを備えた「スマート眼鏡」で指名手配犯や重要人物を瞬時に見つけられるという。女性警官の一人と目が合った気がして、私は小走りでその場を立ち去った。街中にもいたる所に監視カメラが設けられ、あちこちで警察官やボランティアらが目を光らせている。こうした監視システムは、「天網(悪人を逃さないよう天が張り巡らせた網)」と名付けられ、中国全土で急速に普及している。まさに「ハイテク文革」とも言える状況だ。
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2007年と12年、私は中国総局員として、5年に一度開かれる中国共産党大会を取材し、胡錦濤(こきんとう)指導部から習近平(しゅうきんぺい)指導部への移行過程を追う機会に恵まれた。その間、北京五輪が開かれ、中国は国際的な地位を一気に高めた。日本の国内総生産を抜き、超大国アメリカの背中を猛追。こうした経済成長の果実を惜しみなく軍事費につぎ込み、急速な近代化を進めてきたのだ。
その足元では何が起きていたのか。31の省、自治区、直轄市のほとんどに足を運び自分の目で見てきた。中国軍の空母建造工場、最新鋭ステルス戦闘機の飛行実験場、サイバー攻撃の発信拠点、中朝国境での密輸現場、女性スパイによる「ハニー・トラップ」の実態……。事前に綿密な下調べをして監視の目をかいくぐり、党と軍の核心に迫ろうとした。
ところが、私が北京を離れた直後から情勢が緊迫する。2015年以降、8人の日本人がスパイ罪で起訴された。中国ではスパイ罪の最高刑は死刑だ。中国で働いたり、旅行したりするすべての外国人がその危険にさらされる。外国特派員も例外ではない。当局から一度狙われたら、どこにいても居場所を把握されてしまう。朝日新聞中国総局の同僚たちも、ロケットの打ち上げ現場や国有企業の工場などを取材しようとしただけで拘束された。
巨大経済圏構想「一帯一路」で、国外にまでデジタル監視システムや中国式のインフラを輸出していけばチャイナ・スタンダードが広まり、世界の報道の自由が脅かされかねない。
取材成果については新聞紙上で公表してきたが、その過程について明らかにすることはほぼなかった。誇れるような成功談ばかりではなかったし、そもそも取材手法は表にできない部分が少なくなく自分だけの記憶にとどめておくつもりだった。
しかし、振り返ってみれば、私が滞在した2007年からの約6年間は、まだ中国各地を縦横無尽に駆け巡ってルポができた最後の時代だったのかもしれない。「記者は現代史の最初の目撃者」と言われるならば、その軌跡を後世にしっかりと記録として残す責務があるのではないか。こう自問しながら、約40冊の取材ノートと当時の写真を取り出し、ときに胸躍り、ときに思い出したくない記憶を呼び覚まし、筆を執ることにした。
これまでほとんどの人が立ち入ったことがない、いやこれからは二度と入ることができないかもしれない数々の現場に、読者のみなさんを案内したいと思う。
