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大友博

大友博

プロフィール

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

大友博の記事一覧

第14回 『ザ・ビートルズ』ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)
第14回 『ザ・ビートルズ』ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム) 1968年9月。クリームの解散は誰もが知るところとなり、10月から11月にかけて全米各地とロンドンでフェアウェル公演が行なわれることが発表されている。23歳のクラプトンは、残された仕事を重荷と感じつつも、新たな創作活動に向けた一歩を踏み出そうとしていた。2011年夏にインタビューしたとき本人から確認したことだが、もうこの時点で彼は、スティーヴ・ウィンウッドと新プロジェクト結成を前提にしたセッションやミーティングをスタートさせていたという。
第13回 『ホイールズ・オブ・ファイア』クリーム
第13回 『ホイールズ・オブ・ファイア』クリーム 2007年発表の自叙伝でクラプトンは、クリームのサード・アルバム『ホイールズ・オブ・ファイア』について、まったくといっていいほど語っていない。前回も書いたとおり、完成を前に、彼の心はもうクリームから離れていた。70年代以降もしばしばライヴで演奏してきた《ホワイト・ルーム》という重要な曲を含むアルバムではあるが、作品としては、あえて語るほどのものではないということなのだろう。
第12回 『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』ザ・バンド
第12回 『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』ザ・バンド ニューヨークのアトランティック・スタジオで録音されたクリームのセカンド・アルバム『ディスラエリ・ギアーズ』が発売されたのは1967年秋。翌年春には《サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ》が全米5位のヒットを記録し、クリームと、そのギタリスト、エリック・クラプトンの知名度と評価は飛躍的に高まった。恵まれたルックスと斬新なファッション・センスなど、演奏家としての技術や感性とは別の次元でも、まだ20代前半の若さだった男の人気は沸騰していく。コンサートの規模も日増しに大きなものとなっていった。
第11回 『カラフル・クリーム』クリーム
第11回 『カラフル・クリーム』クリーム イギリスではシングルのみの扱いだった《アイ・フィール・フリー》をオープニングに据えたアメリカ版『フレッシュ・クリーム』がアトコ・レーベルからリリースされたのは1967年の年明け。そのあと、クリームの3人は、アトコの親会社アトランティックの創業者アーメット・アーティガンに強く勧められ、3月下旬から4月上旬にかけて、ニューヨークを訪れている。クラプトンにとっては、記念すべき初のアメリカ訪問だった。
第10回 『アー・ユー・エクペリエンスド?』ジミ・ヘンドリックス
第10回 『アー・ユー・エクペリエンスド?』ジミ・ヘンドリックス エリック・クラプトンとジミ・ヘンドリックスは、1966年10月1日、ロンドンのライヴ会場ではじめて会ったといわれている。自叙伝にもそう書かれているので、確かな事実と受け止めていいだろう。クリームは、まだレコードは出ていないが、精力的にライヴを行ない、その活動を軌道に乗せていた。
第9回 『フレッシュ・クリーム』クリーム
第9回 『フレッシュ・クリーム』クリーム 1966年春、『ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』のレコーディングを終えるとすぐ、クラプトンは新たな一歩を模索しはじめる。メイオールとの仕事にはそれなりに満足し、バンドでのプレイには自信を持っていたが、なにかが物足りなかった。ベースとドラムスだけをバックに(つまりトリオで)強烈な演奏を聞かせるバディ・ガイのライヴにも触発され、「自分もフロントマンに」と思うようにもなったのだという。自叙伝にはそう書かれている。
第8回 『ホワッツ・シェイキン』エリック・クラプトン&パワーハウスほか
第8回 『ホワッツ・シェイキン』エリック・クラプトン&パワーハウスほか 自叙伝『クラプトン』ではなぜか触れられていないのだが、1966年春、ブルースブレイカーズのアルバム制作と前後してエリック・クラプトンは、パワーハウスというプロジェクト名義のレコーディングを行なっている。メンバーはクラプトン=ギター、スティーヴ・ウィンウッド=ヴォーカル、ジャック・ブルース=ベース、ポール・ジョーンズ=ブルースハープなど6人。ただし、正式なバンドではなく、アメリカのレコード会社エレクトラがイギリスでの本格的業務開始にあたって企画した、いわゆるサンプラー・アルバムのために組織されたスペシャル・ユニットだった。メンバーの推薦など、中心になって動いたのはマンフレッド・マンのメンバーとして活躍していたポール・ジョーンズだったといわれているが、アルバム・ジャケットでのクレジットはエリック・クラプトン&ザ・パワーハウス。『ウィズ・エリック・クラプトン』の発表を前にして、すでに彼は、ロンドンの音楽界でそれだけの評価を獲得していたわけである。
第7回 ボブ・ディラン『ブロンド・オン・ブロンド』
第7回 ボブ・ディラン『ブロンド・オン・ブロンド』 2007年出版の自叙伝『クラプトン』の、原書でいうと60頁に、ボブ・ディランとの出会いが書かれている。1965年4月から5月にかけて、ディランは初の本格的な英国ツアーを行っているのだが、ちょうどその時期、ブルースブレイカーズに参加したばかりのクラプトンは、ジョン・メイオールの推薦もあって彼のセッションに参加したというのだ。ディランが《ライク・ア・ローリング・ストーン》を録音するのは同年6月、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルのステージにエレクトリック・バンドを従えて登場するのは7月のことだから、すでに、さまざまな機会を生かして、意欲的な試行錯誤を重ねていたのだろう。
第6回 ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン『ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』
第6回 ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン『ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』 18歳でヤードバーズに参加したエリック・クラプトンは、自らがギタリストとして大きく成長することによって、バンドの可能性を高めていった。だが、そのヤードバーズがポップな方向性を打ち出し、商業主義的な意味で上昇気流に乗りはじめると、バンドを去っている。彼が目指すものはブルースという芸術であり、富や名声ではなかったからだ。さまざまなことに失望し、音楽界そのものから身を引くことも考えたという。実際、彼はいったん生まれ育ったリプリーに戻り、あらためて祖父母と暮らすようになっていた。
第5回 ヤードバーズ『フォー・ユア・ラヴ』
第5回 ヤードバーズ『フォー・ユア・ラヴ』 エリック・クラプトンの初公式作品『ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ』は、録音が1964年3月、発売が同年暮れ。この9カ月のあいだにイギリスの音楽界をめぐる状況は大きく変化していた。激変といっていいだろう。アメリカ進出をはたしたビートルズが世界的な規模でビートルマニアを巻き起こし、ローリング・ストーンズもビッグ・ヒットを連発。ブルース求道者的な立場を貫いていたクラプトンはあまり意識していなかったようだが、ヤードバーズのほかのメンバーたちは、次第に「オレたちも」と思うようになっていった。同世代の音楽仲間が急速に巨大化し、その結果として富や名声を手に入れてしまったのだから、まあ、無理もない。周囲の人たちからの期待も半端ではなかったはずだ。

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