AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL
早川智

早川智

(はやかわ・さとし)
日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授

プロフィール

1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

早川智の記事一覧

女好きの豊臣秀吉、実は男性不妊だった!? 現代の医師が診断
女好きの豊臣秀吉、実は男性不妊だった!? 現代の医師が診断 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。  日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断した豊臣秀吉の症例を紹介したい。 *  *  * 【豊臣秀吉(1537~1598)】  戦国の三大英傑、信長、秀吉、家康が直属の上司あるいは主任教授だったらどうだろうと思うことがある。信長はまず却下。家康もCEOや学長、あるいは大きな学会の理事長には間違いなくなるだろうが、あまり楽しい毎日は望めそうにない。  その点では、豊臣秀吉が最高だろう。もっとも、天下人になるまでという但し書きが入る。 ■サクセスストーリーと天下人の病  木下藤吉郎(幼名・日吉丸)、後の羽柴秀吉は天文6年2月6日(1537年3月17日)、尾張国愛知郡中村郷で足軽木下弥右衛門の子として生まれた。寺の小坊主や行商人を経て当初、今川家家臣松下某に仕えるも出奔して、織田信長に仕え頭角を現した。本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると「中国大返し」により光秀を破った後、信長の嫡孫・三法師を擁して信長後継の地位を得た。朝廷から豊臣姓を賜り、関白・太政大臣として天下統一を果たした。巨大な大坂城を築き、太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制など国内統治を進める一方、文禄・慶長の二度にわたって朝鮮に出兵、その最中に、慶長3年8月18日(1598年9月18日)幼い秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。 「矢作川での蜂須賀小六との出会い」「墨俣一夜城」や、「軍師半兵衛との出会い」「賤ケ岳七本槍」や「小牧・長久手の合戦」「小田原連れ小便」「黄金の茶室」「醍醐の花見」など、秀吉のエピソードは小説やドラマであまりに有名である。最底辺から身を起こし、上司・同僚・部下に気を使いながら順調に業績を上げて出世するというサクセスストーリーは、高度成長期の日本人の共感を得たに違いない。
日本初の「がん告知」を受けた岩倉具視 ドイツ人名医の「告知の条件」とは
日本初の「がん告知」を受けた岩倉具視 ドイツ人名医の「告知の条件」とは 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。  日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断し明治の元勲、岩倉具視の症例を紹介したい。 * * * 【岩倉具視(1825~1883)】  今ではありえないが、筆者が研修医だったころ、よほど早期でない限りは患者さんに「がんの告知」をしなかった。「放置すると悪性化する」とか、「極めて悪性度の高い前がん状態」とか言って手術の承諾をもらったものである。一番困ったのは再発や手術不能の患者さんで、「術後の癒着」とか「抗がん剤の副作用」といった苦しい説明をしたことを覚えている。 ■日本初のがん告知  日本で最初に西洋医学的ながん告知を受けたのは、明治の元勲、岩倉具視であろう。東京帝国大学のお雇い医師ベルツは、明治16年(1883年)初め、ドイツ公使館で一人の若い貴族から父親の病気について相談を受けた。年齢が52歳(これはベルツの聞き誤りで実際は数えの59歳)で、数カ月前から食事が飲み込みにくくなったという。  ベルツはすぐに受診するよう勧めるが、連絡なく半年が過ぎた。すると宮内省から、京都で静養している岩倉公を往診し、東京に連れて帰るようにという依頼があった。岩倉はやせ細り、著しい衰弱状態にあった。進行した食道がんだったのである。  ベルツは診断がついた後、「お気の毒ですがご容体は今のところ絶望的です。これを申し上げるのは、閣下がそれを望んでおられるからであり、またあなたはそれを知りたいわけがあること、あなたが死を恐れる方ではないことを存じ上げているからです」と話した。岩倉は深く感謝し、「これは一身のことではない」として、国家組織が未熟であり、政敵ながらも後継者に目していた伊藤博文が憲法調査の外遊から帰るまで自分の生命がもつかどうか尋ねた。ベルツは「全力を尽くして治療します」と約束したが、1カ月後の明治16年7月20日、遺言を参議井上馨に託して死去した。
座ると「ひざが三つ」!? 道鏡が女帝に寵愛された理由
座ると「ひざが三つ」!? 道鏡が女帝に寵愛された理由 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。 『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、道鏡の症例を紹介する。 * * * 【弓削道鏡 (700?~772年)】  神武天皇以来2600余年というのはいくら何でも吹きすぎだが、日本の皇統は古墳時代から連綿と続いている。王朝交代説もあるが具体的な証拠はない。その皇統が最大の危機に陥ったのは奈良時代末期、称徳天皇の下で権勢を振るった弓削道鏡と宇佐八幡宮神託事件だろう。  壬申の乱で皇位を獲得した天武天皇の直系曽孫・聖武天皇は、初めて臣下である藤原氏出身の光明子を皇后とし、基王を皇太子としたが、病で早世したため妹の阿倍内親王を立太子した。  阿倍内親王は天平勝宝元年(749年)に父からの譲位により孝謙天皇として即位、父帝の没後、橘奈良麻呂の乱を治めて9年間統治した。天平宝字2年(758年)病気であった光明皇太后に仕えるため退位したが、藤原仲麻呂の乱を機に淳仁天皇を廃して称徳女帝として重祚した。  孝謙女帝が上皇であった時に、寵愛を受けたのが弓削道鏡である。物部氏一族の弓削氏の出自とも天智天皇の末裔ともいう。奈良仏教の一つ法相宗を極め、サンスクリット語や禅にも通じた。  天平宝字5年(761年)、平城宮改修のため近江国保良宮に遷宮した時、病を得た孝謙上皇を看病して信頼を得た。藤原仲麻呂失脚後は太政大臣禅師、さらに法王となり、政界宗教界ともに総攬するようになった。さらに、宇佐八幡宮より道鏡を皇位に就けよという神託が伝えられた。しかし、和気清麻呂がこの神託が虚偽であることを上申、称徳天皇の没後、道鏡も失脚し配流先の下野国で没した。
「徳川家康の死因は天ぷらの食べ過ぎ」じゃなかった!? 現代の医師が診断
「徳川家康の死因は天ぷらの食べ過ぎ」じゃなかった!? 現代の医師が診断 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。  日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断した徳川家康の症例を紹介したい。 * * * 【徳川家康(1542~1616)】  医学系の学会にはさまざまな国から研究者を招待することが多い。日本に何度も来ている教授連中はスシ、サシミ好きが多いが、東欧や東南アジア出身で生魚には抵抗がある人も少なくない。その点、今まで天ぷらでもてなしてハズレはない。特にお座敷天ぷらのカウンターは興味津々のようだが、天ぷらも、過食は命に関わることもある。 ■戦国の最終勝者  徳川家康は三河国の小領主・松平広忠の子として天文11年(1542年)岡崎城に生まれた。幼名は竹千代、6歳の時に父の命で駿府へ送られるが、その途中織田信秀配下に捕らえられて尾張へ、2年後に人質交換で駿府へ移される。今川義元の下で元服し、松平次郎三郎元信と名乗り、その後蔵人佐元康と改めた。父の死後は義元の軍師でもあった太原雪斎の指導を受けた。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで義元が討たれると、前線にあった元康は、今川軍が放棄した岡崎城に入り自立する。  今川氏真と断交し信長と同盟、翌年には元康の「元」の字を取って家康と名を改め三河を統一する。信長には妻と最愛の長男信康を殺害、切腹させられるなど理不尽な仕打ちも受けたが、上洛支援や朝倉・浅井の連合軍を姉川で破るなど誠実に尽くす。天正10年(1582年)、宿敵武田を滅ぼした後、駿河拝領の礼のため安土城の信長を訪れ、さらに堺で遊覧中に本能寺の変に遭遇する。すんでの所を京都の商人、茶屋四郎次郎清延の案内で脱出。
ミケランジェロも悩まされた「帝王病」とは? 現代の医師が診断
ミケランジェロも悩まされた「帝王病」とは? 現代の医師が診断 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。 『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、偉大な芸術家・ミケランジェロを紹介する。 * * * 【ミケランジェロ (1475~1564年)】  ヴァチカン宮殿にあるローマ教皇の書斎「署名の間」には有名なラファエロの「アテネの学堂」の壁画がある。中央には天上を指差すプラトンと地上を指差すアリストテレスが、階段には定規を持つユークリッド、ハーモニーを吟ずるピタゴラスら、ギリシャ古典時代の大学者が描かれている。 ■芸術家をモデルに  画中の人物は、作者と同時代の尊敬する芸術家にモデルをとったという。実際、プラトンは老齢のレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像にそっくり。アリストテレスは、大先輩ミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti)をモデルにしている。階段下で頬杖をついて物思いにふける中年男性は、万物流転を説いたヘラクレイトスとされる。これもモデルは同じである。最初のデッサンにはないことから、尊敬する巨匠を目の当たりにし、書き加えたという。威風堂々たるアリストテレスよりこちらのほうが、鼻の曲がったミケランジェロの自画像に似ている。  米国ジョージタウン大学の循環器科医Espinelはヘラクレイトスとされる人物の右膝の皮下に黄白色の結節があること、ミケランジェロが尿路結石に苦しんだ記録があることから、これが痛風結節であるという仮説を提唱した。 「アテネの学堂」が描かれた1510年はミケランジェロ35歳。脂の乗り切った時期である。自ら鎧をまとって戦うことで有名な教皇ユリウス2世は、ミケランジェロを招き、システィーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じた。「アテネの学堂」とほぼ同時期であることから、ラファエロはミケランジェロを頻繁に見る機会があったことになる。
スイーツ好きだった文豪・夏目漱石を悩ませた病気とは? 現代の医師が分析
スイーツ好きだった文豪・夏目漱石を悩ませた病気とは? 現代の医師が分析 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。 『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、文豪・夏目漱石を紹介する。 * * * 【夏目漱石 (1867~1916年)】  深夜まで原稿を書いていると、お腹がすいてくる。空腹を満たすものが手元にあれば、これをつまみながら仕事を続けることができる。職場でも家でもさらにホテルでも煙草が吸いにくくなった昨今、文士の友はお菓子になっているかもしれない。しかし、当然ながらこれを続けると血糖値も上がるし高脂血症も来す。決して長くはない生涯に、膨大な作品を残した明治を代表する文豪・夏目漱石も、知る人ぞ知る甘党であった。 ■神経衰弱と胃潰瘍  漱石(本名金之助)は1867(慶応3)年1月5日、江戸牛込の名主の家に生まれた。明治維新前後、生家の経済的没落から養子に出され苦労するが、大学予備門を経て帝国大学に入学、英文学を学ぶ。卒業後は愛媛県尋常中学、熊本の旧制五高に英語教師として赴任。1900(明治33)年には英国に留学し、3年後に帰国すると東京帝大などで講師を勤める傍ら、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「倫敦塔」などを執筆する。07年には東大を辞して朝日新聞社に入社。「虞美人草」「三四郎」など連載小説に取り組み、流行作家となる。しかし神経衰弱と胃潰瘍に悩まされ、10年には東京・内幸町の長與胃腸病院に入院、その後修善寺で療養中、大量の吐血をして生死の境をさ迷う。いわゆる「修善寺の大患」である。病後の心境の変化が晩年の「則天去私」の思想につながるが、16年12月9日、胃潰瘍からの出血により死去した。享年49。
ローマの英雄カエサルの運命を変えた「神聖な病気」とは? 現代の医師が診断
ローマの英雄カエサルの運命を変えた「神聖な病気」とは? 現代の医師が診断 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。 『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、早川教授が診断した、ローマの英雄カエサルの病を紹介する。 *  *  * 【カエサル (紀元前100~紀元前44年)】 君主たるもの国民に「愛されるより恐れられるほうが安全である」とは、かのマキャベリの言である。なぜなら人間は利己的で偽善的なものであり、従順であっても利益がなくなれば反逆するが、恐ろしい君主には歯向かわないからだという。21世紀になってもこの原理を守っているかのような指導者がいるが、マキャベリが真に理想としたのは絶大な政治力と指導力、さらに軍事的才能と文才に恵まれたローマの英雄カエサルである。  紀元前100年、ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar)は同名の父と母アウレリアの間に生まれた。生家はローマの名門貴族だったが民衆派に近く、閥族派の独裁官ルキウス・コルネリウス・スッラに睨まれて亡命するなど、青年期は不遇だった。  スッラの死後頭角を現し、最高神祇官、法務官と順調に出世を遂げると、40歳でオリエントの凱旋将軍ポンペイウス、スッラの後継者クラッススとともに三頭政治を結成、コンスル(最高執政官)に選任される。その後ガリアの属州総督として、海を越えブリタニアまでを征服し、紀元前52年には全ガリアを平定。しかし、この功に対し元老院とポンペイウスは総督解任と本国召還を命じる。カエサルは応じず「賽は投げられた」とルビコン川を越えてローマへ進攻、内戦に突入する。  ポンペイウスを追ってエジプトに乗り込むと当地の政争に介入、クレオパトラを女王にし、北アフリカで抵抗を続けていた共和派の残党を討ち果たすと華々しくローマに凱旋、市民は彼を熱狂的に迎えたのだった。  帝政を思い描くカエサルは終身独裁官に就任し、権力を一身に集める。しかし、これに危機感を覚えた共和主義者たちに暗殺される。最期の言葉はかの有名な「ブルータスお前もか」。
5 6 7 8 9

特集special feature

    この人と一緒に考える

    カテゴリから探す