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久保田龍雄

久保田龍雄

プロフィール

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘!激突!東都大学野球』(ビジネス社)。

久保田龍雄の記事一覧

今じゃ考えられない“不滅の記録”? 阪神・久保田智之「伝説のシーズン90試合登板」を 振り返る
今じゃ考えられない“不滅の記録”? 阪神・久保田智之「伝説のシーズン90試合登板」を 振り返る NPBのシーズン最多登板記録は、1961年に西鉄・稲尾和久が達成した78試合が長い間、不滅の記録だったが、05年に阪神のリリーフエース・藤川球児が「80」に更新。そして、07年に前人未到のシーズン90試合登板の金字塔を打ち立てたのが、藤川、ウィリアムスとともに阪神最強のリリーフトリオ“JFK”を構成した久保田智之だった。
“赤いイチロー”やPL出身の野球エリートも 大成できなかった背番号「51」の外野手たち
“赤いイチロー”やPL出身の野球エリートも 大成できなかった背番号「51」の外野手たち 背番号「51」というと、今でもイチローを連想する人が多いはずだ。イチロー以降も、51番は広島若手時代の鈴木誠也(現カブス)の出世番号になり、巨人・浅野翔吾が「イチローさんに近づけるように」と自ら希望してつけたエピソードも知られている。その一方で、大成できずに終わった51番も少なくない。
ドラフト最多8球団指名、野茂英雄&小池秀郎の「外れ1位14人」 89年組は“濃い選手”がズラリ
ドラフト最多8球団指名、野茂英雄&小池秀郎の「外れ1位14人」 89年組は“濃い選手”がズラリ 半世紀以上にわたるドラフトの歴史の中で、これまで最も多くの球団が1位指名で競合したのは、1989年の野茂英雄(新日鉄堺)と翌90年の小池秀郎(亜大)の8球団。抽選の結果、野茂は近鉄、小池はロッテが交渉権を獲得したのはご存じのとおり。それでは、抽選に敗れた7球団は、外れ1位で誰を指名したか?野茂と小池の代わりに指名された14人を振り返ってみよう。  
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