山口瞳ファンにとって、その妻の不安神経症の原因は、気がかりな謎だった。瞳本人が「原因不明」としていたからだ。それは一人息子の著者にとっても謎だったが、癌を患い余命1年を宣告された母は、自らその原因を語りだす。2回の堕胎手術。その際の麻酔薬と、胎児の一部が体内に残っているという確信。最愛の夫が発した言葉の衝撃。しかしファンならば、それらの証言よりも、あの物静かな妻「夏子」が、じつはこれほどエキセントリックで、手のかかるワガママな妻だったことに驚くだろう。そして最大の謎だった、瞳の「一穴主義」の原因が、その妻だったことに呆気にとられるはずだ。
 それにしても『江分利満氏の優雅な生活』で、活発な小学生だった「庄助」君が、ここ30年も毎日ホットケーキの朝食しか食べていない、独身の60男に成り果てていたとは──。確かに父が描いた中産階級の核家族「エブリマン」家は崩壊した。サントリーの同僚であった開高健一家とは別の形で。瞳が著者に残した「書くな」の言葉の謎が解けた。

週刊朝日 2012年12月7日号