再評価の機運が高まる昭和の写真家・新山清の作品展 (2/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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再評価の機運が高まる昭和の写真家・新山清の作品展

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撮影:新山清

撮影:新山清

親父は植田さんより2歳上で、友だち同士でしたね

 1911(明治44)年、清さんは愛媛県松山市の桃農家に生まれた。その後、上京して電機学校(現東京電機大学)などで学び、1931年、陸軍技術本部に務める。

 写真と出合ったきっかけは、1935年、理化学研究所(※3)に転職したことだった。ここで「護国(※4)」などのカメラの設計に携わり、写真に目覚めるのだ。その腕前はめきめきと上達し、名だたるコンクールで入選を重ねていく。

(※3 理化学研究所は終戦までコンツェルンと呼ばれる企業グループを形成した当時の産業界の一大勢力。※4 護国はライカを範として独自の機構を組み込んだカメラ)

 清さんと植田正治が出合ったのはそのころだった。「親父は植田さんより2歳年上で、友だち同士でしたね」(洋一さん)。島根県出身の植田は清さんらとともに1937年、中国写真家集団を結成。2人は「生涯アマチュア写真家」を貫き、流行に流されず、撮りたいものを創意工夫して撮る人だった。

 清さんが尊敬する濱谷や植田は、戦後の写真界の大きなうねりにあらがった、いわば「戦友」だった。

 1950年代、戦時中の写真撮影への抑圧や復興期にかけての物不足から開放され、空前のアマチュア写真ブームが巻き起こった。

 その仕掛人の一人が、日本のスナップ写真の先駆者で、写真雑誌の編集長を歴任した桑原甲子雄だった。桑原は技巧を凝らした絵画調写真ばかりのアマチュア写真界に風穴を開けようと、スナップ写真の名手、土門拳を起用する。

 土門は簡潔で力強いスローガン、「絶対非演出の絶対スナップ」を掲げ、「リアリズム写真運動」を展開。月例写真コンテストの選者として、誠実かつ過激な文章でアマチュア写真家たちを鼓舞し続けた。

 それは停滞していたアマチュア写真に活を入れるとともに、戦前からの絵画調写真に重きを置く地方のアマチュア写真団体のボスに対して改革を迫る起爆剤だった。リアリズム写真運動は写真界の過激な政治運動でもあったのだ。


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