可児市瀬田に残る明智城址/明智城址のある可児市瀬田には、平安時代から摂関家や石清水八幡宮の所領地だった明智荘の名が伝えられており、土岐明智氏の本拠地とも推定されている
可児市瀬田に残る明智城址/明智城址のある可児市瀬田には、平安時代から摂関家や石清水八幡宮の所領地だった明智荘の名が伝えられており、土岐明智氏の本拠地とも推定されている

 週刊朝日ムック『歴史道Vol.7』では、明智光秀を大特集。織田信長の家臣となってからの光秀の活躍は周知の通りだが、それに比して前半生については確かな史料に乏しく、ベールに包まれている。ここでは「いつ、どこで生まれたのか?」「父親は誰なのか?」「名門・美濃士岐一族というのは詐称なのか?」――戦国史研究の第一人者・小和田哲男氏が、出生の謎を解き明かしていく。なお『歴史道Vol.7』本編には、青年時代から信長との宿命的な出会いまでを追求した「立志の謎」「仕官の謎」も掲載。

【写真】父親の名前についても諸説あるとされる「明智氏一族宮城家相伝系図書」はこちら

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■生まれ年、出生地など諸説ある光秀の出自

 ある程度、名前の知られた戦国武将の場合、いつ、どこで生まれ、誰の子どもだったかがわかっているのがふつうである。ところが、明智光秀については、この三つすべて、諸説あり、はっきりしていない。

 まず、生年であるが、一般的には享禄元年(1528)とされている。それは江戸時代に書かれた『明智軍記』に享年五十五と記され、いくつかの系図もそのようになっているからである。しかし、『明智軍記』の史料としての信憑性は低く、また、系図も同様である。
 
 異説として、永正十三年(1516)説がある。これは、『当代記』に依拠したもので、『明智軍記』より良質な史料なので、研究者の間では永正十三年説を支持する方が多い。ただ、永正十三年説だと、享年が六十七になってしまい、高齢すぎるという印象もある。

 江戸時代の川柳に「丹波の鼠京へ出て馬を食ひ」というのがあり、織田信長が午年なので、光秀は子年だったという共通理解があったものと思われる。ただ、享禄元年も永正十三年もどちらも子年で、これだけでは決着がつけられない。光秀の活躍ぶり、信長や秀吉らとの関係から考え、私は、享禄元年の生まれでとらえている。

明智家の家紋・桔梗/明智光秀が使っていた家紋は、美濃国で栄えた名門一族、土岐氏と同様の桔梗紋。黒と定められることが多い家紋だが、土岐氏の家紋は水色で染め抜かれ、水色桔梗とも呼ばれる
明智家の家紋・桔梗/明智光秀が使っていた家紋は、美濃国で栄えた名門一族、土岐氏と同様の桔梗紋。黒と定められることが多い家紋だが、土岐氏の家紋は水色で染め抜かれ、水色桔梗とも呼ばれる

 問題は出生地である。これについては現在のところ次の五つが候補地としてあがっている。

(一)岐阜県可児市瀬田 明智城
(二)岐阜県恵那市明智町 明知城
(三)岐阜県山県市中洞
(四)岐阜県大垣市上石津町多良 多羅城
(五)滋賀県犬上郡多賀町佐目

 少し前までは(一)から(四)までの説が主流だったので、美濃出身とされていたが、(五)となると近江出身となるわけで、状況がちがってくる。ただ、(三)(四)(五)の可能性は低く、やはり、(一)か(二)で、美濃の東部、すなわち東濃の出身であることは動かないと思われる。当時の文書に「可児郡明智荘」とあり、これが明智氏の苗字の由来なので、可児市説が有力だが、恵那市明智町の遠山明智氏と、可児市の土岐明智氏との間で養子縁組がなされていたという史料もあり、このあたりの判断は難しい。

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