光秀の父親の名は、史料により光綱、光隆、光国の名があり定かではない。「明智氏一族宮城家相伝系図書」では、光秀は父の光綱没後、明智城で叔父の後見のもとにあったとする
光秀の父親の名は、史料により光綱、光隆、光国の名があり定かではない。「明智氏一族宮城家相伝系図書」では、光秀は父の光綱没後、明智城で叔父の後見のもとにあったとする

 父親の名前についても諸説がある。各種系図によってちがいがあるからで、系図の多くは父親の名を光綱としているが、光隆とするもの、光国とするものもあり、これも実際のところはどうだったのかがわからない。

『続群書類従』所収「明智系図」、『系図纂要』所収「明智系図」がオーソドックスな系図であるが、やや異色なのが「明智氏一族宮城家相伝系図書」(『大日本史料』第十一編之一所収)で、それによると、実父は光綱ではなく、光綱の妹が山岸信周に嫁ぎ、そこで生まれた子が光綱の養子に迎えられたとしている。ちなみに、この「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、光秀は「石津郡多羅」で生まれたとしており、先にあげた出生地の(四)に該当するわけで、このあたりも謎といってよい。

 歴史研究の史料として系図は信憑性が低いため、研究者の中には、光秀は、美濃守護土岐一族の明智氏とのつながりはなかったとする人もいる。つまり、名門土岐一族の出身というのは詐称ではないかというのである。
 
 たしかに、系図は先祖を名門の家につなげて作成されることが多いので、その可能性もあるかもしれない。ただ、光秀の場合、同時代人の証言があるので、私は土岐氏の分かれの明智氏でいいのではないかと考えている。その同時代人の証言というのが、当時、京都で禁裏御倉職しきをつとめていた立入左京亮の「立入左京亮入道隆佐記」(『続群書類従』第二十輯上)で、そこに次のような記述がある。

 美濃国住人ときの随分衆也。
 明智十兵衛尉。
 其後、従上様被仰出、
 惟任日向守になる。

「ときの随分衆」という「随分」というのをどの程度にみるかでちがってくるかもしれないが、明智氏が美濃守護土岐氏の一族だったと、当時の人びとが理解していた可能性は大きいと思われる。

 明智氏は土岐氏からの分かれで、明智荘に居住して明智氏を名乗り、室町時代には、幕府の奉公衆となっていた。系図類では、光秀はその直系として描かれているが、それをたしかな古文書類で論証することはできない。

(監修・文/小和田哲男)

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.7』より