2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は都電名物の「トンネル」があった喰違見附(くいちがいみつけ)を走る都電だ。
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「トンネルを抜けると~」。かの有名な表現に代表されるように、どこか神秘的かつ情緒を残すのが、トンネルを抜ける鉄道の光景ではなかろうか。ただ、この写真が、東京のまん真ん中で撮られたものとは想像できない読者が多いかもしれない。
写真は赤坂見附と四谷見附の中間にあった「喰違見附」の専用軌道を走る3系統品川駅前行きの都電だ。江戸城・喰違見附の御門跡はこの写真右側にあり、御門に連なる土塁に煉瓦(れんが)巻きのトンネルがあり、1905年の開通以来「都電(市電)のトンネル」として乗客から親しまれてきた。
■都電の車上から花見が楽しめた
写真左側の石垣の土手上はかつては桜並木で、1960年代初頭まで都電の車上から花見が楽しめた。東京オリンピックの首都高速道路工事が進捗すると、この一帯は4号新宿線の建設用地になった。その結果、1962年頃から無粋にも件の桜並木は伐採され、土塁上には建設工事資材が集積された。撮影は1963年の冬だったから、トンネル近辺はきわめて殺風景になってしまった。
1963年5月、この複線専用軌道を画面左側の土手上に、単線専用軌道で迂回移設する土木工事が開始された。村上建設が移設工事を施工し、7月には外濠線の時代から続いた都電のトンネルは惜しまれながら姿を消した。
余談であるが、1963年7月から実施された単線迂回運転は、首都高速道路4号線の竣工後も複線に復旧されることはなく、3系統が路線廃止された1967年12月まで続いた。単線区間に入る双方の手前に設置されたトロリーコンタクターと矢印信号機によって、運転保安がはかられていた。
単線運転が開始されると、「都電唯一の単線運転」として再度ファンの注目を浴びることとなった。
■都電のトンネルの乗車体験
この「都電のトンネル」を走る3系統は筆者が幼少時代から親しんだ路線で、当時の記憶を辿り、その乗車体験を綴ってみる。