これが東京の真ん中!? 56年前に赤坂見附を走った都電と「喰違見附」の名物トンネル (2/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

AERA dot.

これが東京の真ん中!? 56年前に赤坂見附を走った都電と「喰違見附」の名物トンネル

連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」

このエントリーをはてなブックマークに追加
諸河久dot.#アサヒカメラ#鉄道
若葉町一丁目方から見た首都高速4号線の工事現場 右側が迂回移設された単線軌道 (撮影/諸河久:1963年7月21日)

若葉町一丁目方から見た首都高速4号線の工事現場 右側が迂回移設された単線軌道 (撮影/諸河久:1963年7月21日)

『四谷見附から3系統品川駅前行きに乗車。右手に赤坂離宮の美しい鉄門と威容が展望する。若葉一丁目の停留所を過ぎると軌道は左に折れて、外濠に沿った専用軌道に入っていく。専用軌道の入口には「特別坂路 注意」の標識と色灯信号機があり、ここで一旦停車した都電は、下り勾配に任せて速度を上げてゆく。車窓左手には旧真田濠を空堀とした上智大学真田堀運動場のグラウンドが展開し、軌道敷きに沿ってボールの防護ネットが設置されている。

 眼前に喰違見附の土塁が迫り、アンティークな煉瓦巻きのトンネルポータルに吸い込まれていく。延長が僅か24mといわれたささやかなトンネルだが、夏季には開け放たれた前窓からトンネル内の冷気が車内に入り、一瞬の清涼感をもたらしてくれる。

 トンネルを抜けると、満々と水をたたえた弁慶濠と周囲の木々の緑が広がり、無機質な都会の喧騒に潤いを与えてくれる。往時は右側の土手が桜並木で、満開時には都電が観桜電車に変身した。右にカーブを切ると再び併用軌道になり、弁慶濠の貸ボート場や弁慶橋を左手に見ながら、赤坂見附の停留所に到着する』

紀伊国坂に上る歩道から垣間見た「都電のトンネル」があった喰違見附の土塁 首都高速4号線は行き交う車で賑わっていた (撮影/諸河久:2019年3月27日)

紀伊国坂に上る歩道から垣間見た「都電のトンネル」があった喰違見附の土塁 首都高速4号線は行き交う車で賑わっていた (撮影/諸河久:2019年3月27日)

■都電のトンネルが建設された時代

 東京電気鉄道(外濠線)が溜池線の敷設時に、喰違見附のトンネルが建設された。赤坂見附~喰違見附には紀伊国坂(きのくにざか)の急勾配があり、上り勾配の緩和線として坂の途中から外濠に張り出す格好で専用軌道が敷設された。その付帯工事で喰違見附の土塁にトンネルを貫通させた。

 東京電気鉄道・溜池線は琴平宮前~四谷見附約2900mの路線で、東京鉄道会社に合併された1909年に起点を琴平町に変更している。また、赤坂見附~若葉一丁目1054mの中間に開通当初は紀伊国坂、大正期から紀ノ国坂下と呼称された停留所が存在した。赤坂見附から約400mの地点だったという記録から、弁慶濠畔にあったと推定される。(戦時中の1944年に廃止)また、若葉一丁目の停留所名称は戦後のもので、開通時は学習院前だった。後年、四谷仲町→四谷一丁目と改称している。

 都電のトンネルを走った運転系統と車両に触れておこう。1929年には40系統(飯田橋~札の辻)と41系統(飯田橋~三原橋)の二系統がここを走った。1931年になると32系統(飯田橋~三原橋)と33系統(飯田橋~札の辻)に改番される。この時代が市電の黄金時代で、三田車庫の木造単車400型の一人舞台だった。



おすすめの記事おすすめの記事
関連記事関連記事
あわせて読みたい あわせて読みたい