だが、皮肉にも、これが横浜時代で最後のAクラスとなり、翌年から再び暗黒時代が始まる。

 牛島体制2年目は、補強に消極的なフロントと亀裂が生じ、主力の故障も相次ぐなど、浮上のきっかけを掴めないまま、最下位に逆戻り。球団は牛島監督に続投を要請したが、親会社の派閥争いなどのゴタゴタに嫌気が差した牛島監督は、自ら辞任を決めたといわれる。チームで唯一の二桁勝利を挙げた門倉健も巨人FA移籍した。

 そんな逆風のなか、96年から2年間指揮をとり、98年の日本一の土台を作った大矢明彦監督が10年ぶりに復帰。「何年も続けてAクラスにいられるよう、誇りを持ってチームづくりをしていきたい」と、トレードなどで寺原隼人、工藤公康、仁志敏久を獲得し、若手に刺激を与えた。1年目は村田が初の本塁打王を獲得するなど、安定した戦いぶりで、71勝72敗1分の4位とまずまずの結果を出した。

 だが、CS進出を目指した翌08年は、球団ワーストタイの14連敗を含む48勝94敗2分の最下位。村田の2年連続本塁打王や内川聖一の首位打者など、打線はリーグ2位のチーム本塁打145本を記録したものの、チーム防御率はリーグ最下位の4.74とかみ合わなかった。

 同年オフには石井琢朗が戦力外通告を受け、現役続行を望んで広島に移籍。エース・三浦大輔もFA宣言し、阪神移籍寸前までいったが、残留を熱望するファンの声に応える形で思いとどまった。暗黒期の弱体投手陣の中で二桁勝利3度(05、07、09年)と孤軍奮闘した三浦は、相次ぐ選手の流出について、後年、「問題なのは球団だと思った。はっきり言って、当時の横浜は出ていきたいチームだった」と回想している。

 エース残留にファンがホッとしたのもつかの間、大矢監督3年目の09年も開幕6連敗と低迷。球団は5月18日に成績不振を理由に大矢監督を休養させると、「1、2軍両方の選手に精通する」田代富雄2軍監督を代行に指名した。

 前年ダントツ最下位だったのに、大矢監督を続投させ、シーズン開幕2カ月足らずで事実上の解任を行った球団の定見のなさは、「目指す野球のビジョンが見えない」と批判された。

 チームも2年連続90敗以上(51勝93敗)という不名誉な記録をつくり、5位・広島に16ゲーム差で2年連続最下位に沈んだ。

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プロ野球史上で最も“出ていきたい球団”だった?