活動休止中のアイドルグループ「嵐」のメンバー、松本潤さんが主演することで話題のNHK大河ドラマ「どうする家康」。1月8日、ついに放送が始まる。タイトル通り、ドラマの主人公は徳川家康。言わずと知れた「戦国の乱世を終わらせた男」だが、家康という人物についても、彼が江戸幕府を開いたことから始まる江戸時代についても、まだ解明しきれていない謎があり、通説とされてきた史実が覆されることもある。
「どうする家康」を120%楽しむために、累計35万部超の「だからわかる」シリーズ最新刊『テーマ別だから政治も文化もつかめる 江戸時代』から、徳川家康と徳川家、江戸時代をめぐる5つの疑問に答えていく。
【疑問その1】
松平家出身の家康はなぜ、徳川を名乗ったのか
「どうする家康」の冒頭、徳川家康は「徳川」ではなく「松平元康」として登場するはずだ。松平家は、初代の親氏が三河国松平郷の領主になったことに始まる徳川の祖。親氏の子孫は岡崎や安城に進出して勢力を広げ、多くの分家を創出した。
親氏から数えて7代目にあたる家康の祖父・清康の代で、松平家は国人領主として自立。三河の大部分を平定する。しかし、清康は24歳で家臣に暗殺され、その子・広忠も23歳で早世。松平家は今川家の支配下に入り、広忠の子として生まれた9代目・竹千代(のちの家康)は今川家の人質として幼少期を過ごすことになる。
家康の人生を大きく動かしたのは、今川義元軍と織田信長軍が戦った1560年の桶狭間の戦いだ。今川義元は戦死。その混乱に乗じて岡崎に帰還した家康は、尾張の織田信長と同盟を結び、一向一揆を鎮圧して三河を平定。三河守に任官した際、姓を松平から徳川に改めた。
当時、官位を受けるには、家の「由緒」が必要だった。そのため、家康は系譜を詐称。清和源氏新田氏の庶流である得川家の末裔を称したとされる。
【疑問その2】
家康が捨てた「松平」姓はなぜ、高貴の証となったのか
徳川家が将軍の地位を手に入れると、旧姓の「松平」は特定の一族のみが名乗ることができる尊貴な姓となった。最も多いのが、将軍家と同祖の「十八松平」。多くは譜代大名や旗本になった。安祥松平、大給松平、大草松平などが「十八松平」とされるが、どの家を指すのかは資料によって異なる。