承久の乱を描いた絵巻が2020年、京都市で見つかった。北条義時(左上)のもとに集まる武士たち
承久の乱を描いた絵巻が2020年、京都市で見つかった。北条義時(左上)のもとに集まる武士たち

 鎌倉幕府の権力闘争を描いたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎える。ここでは、鎌倉幕府の滅亡までを特集した週刊朝日ムック「歴史道 Vol.24」から、後鳥羽上皇が武家の頂点に立つ北条義時に対して討伐の兵を挙げた「承久の乱」をひも解く。

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 承久の乱はなぜ起きたのか。その遠因を複雑な人間関係の中に探ってみよう。

 正治元年(1199)、初代将軍源頼朝が急死する。頼朝の跡を継いだのが嫡男の頼家である。頼家は生誕の時から頼朝の正式な後継者として遇されており、この継承自体は当然の成り行きであった。

 しかし、頼家が征夷大将軍に就いた建仁二年(1202)の翌年、幕府政局は風雲急を告げる。頼家が阿野全成・頼全父子を討ったのである。全成は頼朝の弟で、頼家からすれば叔父、頼全は従兄弟にあたる。彼らは源氏将軍の血統を引いていた。しかも、全成の妻阿波局は北条時政の娘で、政子・義時兄弟とも親しい。全成は北条氏と近い関係にあった。

 一方、頼家は政子の実子だが、北条氏とはやや距離がある。父頼朝の乳母は比企尼と呼ばれた比企氏の女性で、伊豆に流された頼朝を支援したのも彼女だった。頼家の乳母も比企尼の娘だが、のみならず妻にも比企尼の娘を迎えている。頼家の時代に幕府で存在感を放ったのは、母の実家北条氏ではなく、妻の実家比企氏なのだった。北条氏と比企氏が対抗する中で、頼家が近親の全成・頼全を排除したのは、権力基盤の不安定さを物語る。

 全成・頼全の殺害直後、今度は頼家が病気を理由に引退する。ここで、さらなる事件が起きた。将軍の権限を子の一幡と弟の千幡(実朝)との間で分割することが決せられたのである。嫡子一幡に全権が譲られると思っていた頼家や比企氏にとっては、寝耳に水である。比企氏に対抗して実朝を推戴する北条氏の策謀であった。両者の対立は軍事衝突へと発展し、結果、一幡と比企氏は討たれ、実朝が将軍を継いだ。頼家は伊豆の修善寺に幽閉され、翌年、暗殺されたという。

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