しかし、この一連の動きに納得がいかないのが上皇である。前述の通り、実朝は上皇をはじめ京都の貴族と親睦があり、しかも、上皇とは義理の兄弟でもあった。友好関係にある実朝が甥の公暁に暗殺されたことは、上皇をして幕府への不信感を抱かしめるには十分である。しかも、幕府が実朝に代わる将軍として自らの子を要求し、それが叶わないとなるや、摂関家の子弟を将軍に引き抜いたことは、不穏以外の何物でもない。そして、貴族社会における身分は取るに足らない北条義時が、幼い三寅を傀儡として、我が物顔に権力を振るう様子は、耐え難いものであったことは容易に想像される。

 上皇が挙兵に踏み切った事情を、『吾妻鏡』は次のように語る。上皇は愛妾亀菊の所領摂津国長江・倉橋両荘(大阪府豊中市)に置かれている地頭の停止を幕府に求めた。しかし、北条義時は頼朝が御家人に与えた御恩を特段の理由もなく取り消すことはできないと拒んだ。このことが上皇の逆鱗に触れたのだという。

『吾妻鏡』は鎌倉時代後期に幕府側の立場から書かれた歴史書なので、額面通り受け取ってよいわけではない。愛妾の願いを叶えようとする上皇、他方、頼朝の御恩を重んじる義時。両者を対照させることで、私情を挟む後鳥羽の不当性と原則を貫く義時の正当性とを浮かび上がらせようとしている。ただ、義時が上皇の要求を拒むようなことが実際にあったとすれば、それは上皇の目には分不相応な振る舞いに映ったことは間違いなかろう。

 こうして上皇は、承久三年(1221)、幕府に対して兵を挙げることになる。この時の上皇の命令を伝える五月十五日付の文書が2種類伝わっている。一つは官宣旨(弁官下文)という形式の文書、もう一つは院宣という形式の文書である。いずれも世の政治を牛耳り、朝廷の権威を軽んじていると、義時の横暴を非難する点は共通しているが、ただし、命令の対象と内容は多少異なっている。

 前者は朝廷の歴とした公文書で、形式上の宛先は「五畿内・諸国」であり、内容的には全国の守護・地頭に対して「義時の身を追討」するよう指示を出している。一方の後者は、個人に宛てて出される私的な文書であり、幕府の有力者に対して「義時の奉行を停止」するよう働きかけている。ここでの「奉行」とは御家人を統率し幕政を担っていることを指す。すなわち、前者は不特定多数の武士に対する軍事動員であり、後者は特定の関係者に対する政治工作である。

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