第二次大戦中のフィンランドの周辺状況(朝日新書より)
第二次大戦中のフィンランドの周辺状況(朝日新書より)

■強大なソ連軍を果敢な抵抗で停止させたフィンランド

 まず思いつくのは、1939年11月に始まったソ連・フィンランド戦争(ソフィン戦争または冬戦争)です。ソ連の独裁者スターリンは、同国第二の都市レニングラードと、戦略的に重要な北部の鉄道線の安全を確保するため(仮想敵国ドイツがフィンランド領内からソ連を攻撃する可能性を危惧)として、隣国のフィンランドに領土の割譲を要求しました。そして、フィンランド政府がこれを拒絶すると、敵の砲撃を受けたという開戦口実を作った上で、ソ連軍の大兵力をフィンランドに侵攻させました。

 当時の国際社会では、国家規模の小さいフィンランドが大国ソ連に対抗するのは無理だとして、誰もがフィンランドの敗北を予想しました。開戦時のフィンランド軍は、総兵力32万人の半分以上が予備役と民兵で、戦車は60輌、航空機は104機しかありませんでしたが、侵攻したソ連軍は60万人の兵員と1500輌の戦車、3000機の航空機を投入しており、軍事力の差は歴然としていたからです。

 ところが、兵力と装備で劣るフィンランド軍が善戦し、ソ連軍に甚大な損害を与えて最初の攻勢を撃退したので、世界中が驚きました。フィンランド軍は、戦前に構築していた陣地線で頑強に抵抗する一方、湖沼と森林が多い地域では道路上を進むソ連軍部隊に対してゲリラ戦と包囲(モッティ)戦術で果敢に反撃し、ソ連軍の計画を台無しにしました。

 対戦車兵器の不足を補うため、フィンランド国立酒造協会は酒造工場をフル稼働させ、計5万本もの火炎瓶を製造して前線に供給しました。火炎瓶の製造は、前線部隊でも2万本近く作られ、これらがソ連軍の戦車に情け容赦なく投げつけられたことで、240輌を超えるソ連軍戦車が破壊されました。

 当時のソ連軍は、1930年代後半にスターリンが行った「粛清」(危険人物と見なされた人物の処刑や投獄)で多くの有能な将軍や将校が失われた結果、能力の低い者が部隊の指揮官に任命されており、それも戦争初期におけるソ連軍の劣勢を招いた一因でした。

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「和平交渉は戦力が残っているうちに」