巨人を自由契約になった馬場は60年、「何としても採用してもらうんだ」と必死の思いで年明け早々の多摩川のトレーニングから参加。一次キャンプの三保、二次キャンプの明石と人一倍練習に励んだ。コントロールの良さを認められ、打撃練習でもガンガン投げ、コーチに褒められるなど、「この分なら採用されそう」と好感触を得ていた。

 ところが、明石キャンプで初めての休日となった2月12日に思わぬアクシデントが起きる。

 連日の疲労が溜まっていた馬場は、宿舎で昼ごろまでたっぷり寝たあと、ひと風呂浴びてリフレッシュしたが、浴槽を出て一歩進んだ直後に転倒。浴室の大きな装飾ガラスに体ごと突っ込んだ。

 血だらけになって球場裏の病院に搬送された馬場は、左肩の約3センチ下から手首近くまで負傷したばかりでなく、左の横っ腹も深さ2センチ、長さ30センチにわたって切れており、計35針も縫う重傷だった。

「ほんとについていないです。自分にも落ち度がなかったとは言いきれませんが……」(週刊ベースボール60年3月16日号)と悔やんだ馬場だったが、このけがにより、せっかく決まりかけていた採用も難しくなり、野球をあきらめざるを得なかった。

 だが、同年3月、巨人時代に面識のあった力道山に会うため、日本プロレスセンターを訪ねたことがきっかけで、プロレスラーに転向。全日本プロレスのエースとして一時代を築くことになるのだから、悲劇が回りまわって成功をもたらしたという意味でも、人生何が幸いするかわからない。

 キャンプ中の大けがで選手生命の危機に瀕しながらも、奇跡の復活を遂げたのが、南海時代の門田博光だ。

 79年2月16日、高知・大方球場で柔軟体操をしていた門田は、右足を蹴り上げた瞬間、大きな音とともに激痛を感じ、その場に倒れ込んだ。病院に急行し、検査を受けると、右足アキレス腱断裂で全治6カ月と診断された。

 当時30歳。前年家を買ったばかりで、莫大なローンを抱えていただけに、「一度死んだ日」と思えるほどのショックを受けたが、ファンから贈られた中国の古典「菜根譚」の「茶は精を求めずして」(「いつも心を豊かにしておく」の意味)を座右の銘にしながら、「必ず、もう一度、グラウンドに立つ」と自らに言い聞かせた。

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漫画のような復活を果たした門田