だが、連投で肩や肘が悲鳴を上げるなか、痛み止めの注射を打って投げ続けた無理が祟り、翌91年は登板29試合、0勝3敗2セーブと失速。前年の疲労からキャンプでなかなか調子が上がらないのに、無理して投げた結果、背筋を痛めてしまったのだ。

 ゴムチューブなどを使ったトレーニングで筋肉再生に成功した3年目に41試合登板、2勝5敗23セーブと持ち直したものの、4年目は5月に6試合連続リリーフ失敗で2軍落ち。球速も140キロ台前半に落ちていた。

 その後、ロッテ日本ハム阪神と渡り歩いたが、毎年のように故障に悩まされ、かつての剛球が復活しないまま、00年限りで現役引退した。

 本人は著書「消えた剛速球」(KKベストセラーズ)の中で、「たった1年かもしれない。その1年だけでも充分でないかと感じている。精一杯に輝くことができたのだから」と述べている。

 与田の亜大の後輩にあたる木佐貫洋も、巨人入団1年目の03年に10勝を挙げて新人王を獲得し、07年にキャリアハイの12勝を挙げているが、球自体は、自己最多の180奪三振を記録した1年目が一番凄かった。「凄い」は、数字だけではなく、感覚も大きな要素を占める。その意味では、与田は数字、感覚ともに1年目が最高だった。

 今度は野手。“野村ID野球”で与えられた役割に反発した結果、レギュラーの座を失ったのが、笘篠賢治だ。

 1年目の89年に1番セカンドとして打率2割6分3厘、5本塁打、27打点、32盗塁で新人王を獲得。関根潤三監督の“のびのび野球”の下、個性がいかんなく発揮された。

 ところが、2年目に環境が一変する。野球観が180度異なる野村克也監督が就任したのだ。

 185センチと大柄な笘篠は、俊足とともに長打力も魅力だったが、大物打ちは池山隆寛や広沢克己で十分と考える野村監督は、長打を棄て、バットを短く持ってゴロを転がす脇役に徹するよう求めた。

 にもかかわらず、笘篠は2年目のシーズン開幕後、4月20日の時点で40打数8安打1打点を記録していたが、8安打中、本塁打1、三塁打2、二塁打3と6本までが長打。あくまで自分のスタイルを貫いていた。

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