ひどいいじめに遭い続けてきた畑島には、いじめとしごきの境界線がはっきりと見えたのかもしれない。

 1年生の夏の合宿を乗り越えたとき、畑島は応援指導部のバッヂを授与された。襟章の他にもうひとつバッヂをつけることを許されるのは、応援指導部だけだ。ただし、卒業までに脱落してしまった場合は、バッヂを返還しなくてはならないという掟があった。

「応援指導部は、縁の下の力持ちというか、学校の要というか、そういう存在だったので、指導部のバッヂをつけていると、学校の中で一目置かれます。野球部の先輩にもかわいがってもらったりしました。小学校中学校がパッとしなかったんで、応援指導部は中途半端でなく、最後までやろうと思いました」

 畑島は厳しい練習に耐え抜いて、応援指導部員としての高校生活をまっとうした。そして、バッヂを自分の所有物にすることを許された。勉強のできは相変わらずだったが、横浜高校の応援指導部員だったことは、いまでも畑島の誇りである。

 ちなみに、畑島と一緒に入部した1年生は13人。卒業まで続けたのは7人である。

■ツナギ

 ところが、高校を卒業した畑島の人生は、再びパッとしないモードに逆戻りしてしまう。

 父親の鉄工所で設計の仕事を担当し、いずれは会社を継ぎたいと考えていた畑島は、4つの大学の建築学科を受験するが、すべてに不合格。しかも、浪人をすることもなく大学進学を諦めてしまった。

 仕方なく3年ほど父親の会社を手伝ったが、希望していた設計の仕事を担当する能力はもちろんない。社員から見れば、なんとなく手伝いに来ている「社長の息子さん」である。

 工場で図面を引いてみたり、現場での施工を手伝ってみたりの中途半端な日々を送っていたが、3年目のある日、父親から引導を渡されてしまった。

「外に働きに出ろって言われたのです。親元で仕事をしていると、甘えが出るからという理由でした」

 父親の英断だった。だが、就職した先が悪かった。

 畑島を採用したのは、仕事がきついことで有名な大手の製パンメーカーだった。畑島はその製パンメーカーの工場で、洋菓子屋やカップケーキを製造するラインに配属されることになったのである。噂に違わず、仕事はきつかった。

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