「もちろん、やられるのは悔しかったですけれど、自分に対して自信がなかったんで、反撃しなかったというか、自分を抑えてしまったので、そこにまた付け込まれて、余計にやられてしまったんですね」

 転校先の横浜の小学校には、ついぞ慣れることができなかった。勉強でもスポーツでも、あるいは音楽や図工といった科目でも、脚光を浴びたことは一度もなかった。学校で賞状を貰ったことも、女の子にモテたことももちろんない。

「グレはしませんでしたけれど、親に残酷なことを言ってしまったことが、一度だけありました。元の小学校に通いたかったって」

 この程度で残酷だとは思わないが、畑島はこんな一言を悔やみ続けるほど心優しい子供だったということだろうか。

 中学に進学しても、さして状況は変わらなかった。

 公立の中学校には、同じ小学校からの持ち上り組がたくさんいる。暴言を吐かれ、殴る蹴るの暴行を受けるのは相変わらずだった。クラブ活動は、一応柔道部に入ってはみたものの、2年生の時にやめてしまった。

 結局畑島は、小学校2年生から中学3年まで、学校になじむということがまったくできなかった。鬱々といじめに悩む日々を、通算8年間も送ったことになる。同級生に自慢できることもなく、脚光を浴びることもなく、毎日毎日重苦しい気持ちを抱えて、それでもなんとか学校に通い続けた。

■横浜高校応援指導部

 高校は、野球で有名な横浜高校に進学した。

 私の時代は愛甲猛が有名だったが、最近では大リーグに行った松坂大輔だろうか。横浜高校野球部は、甲子園の常連校である。

 もちろん、横浜高校に進学したからといって、畑島は野球部に入部したわけではない。だが、ここまでの話の流れからはちょっと想像のつかない、大胆な行動に出たのはたしかである。

「実は私、応援指導部に入ったのです。あの、高校野球のアルプススタンドでやるやつです。男子校の応援団ですから、正直、入りたくはなかったのですが、同じクラスの隣の席になった人に誘われて、そのままずるずると入ってしまいました。もちろん、高校では中途半端でなく、何かをやり遂げたいという気持ちはあったのですが……」

次のページ