上野がかつて勤めていた外資系企業は、社内不倫が非常に多い会社だった。過酷な実力主義のせいで多くの社員がストレスを抱えていたせいか、あるいは、ボスに気に入られなければ仕事ができない外資ならではカルチャーのせいか、男性上司とその直属の部下の女性という組み合わせの不倫カップルが、社内に何組も存在していた。

 そのうちの一組に、上野と同期の女性とその直属の上司という組み合わせがあった。聡明な女性だったが、上司との関係が長引くにつれて、彼女の言動は徐々におかしくなっていった。いったん帰宅したかと思うと、深夜になってから職場に引き返してきて、残業をしている上野の目の前で上司の机の中身を調べたり、引き出しの中のものを洗いざらい床にぶちまけたりするようになってしまったのである。

 ある晩、彼女があまりにも乱暴な振る舞いを見せるので、上野がたしなめた。

「◯◯さん、そんなことやめなよ」

 すると、

「うるせえなぁ」

 と低い男言葉で答えが返ってきた。彼女はすでに精神を病んでいたのである。

 そんな姿を上野は何度か目撃したが、その何度目かの夜の翌朝、出社すると彼女の机の上に花束が供えてあった。上野に狂乱の姿をさらした後、彼女は会社の屋上に上ってそこから身を翻してしまったのである。上司から別れ話しを切り出されたのが原因らしいという噂だった。

 その事件のことが、上野の頭にはあった。彼女が続ける。

「私は結婚していないので、上司は奥さんと別れて私と一緒になると言うんですが、そんなことを言いながらだらだらと関係が続いてしまって……」

 雪がだんだん激しくなってきた。車の窓がエアコンのせいで白く曇った。

「なんてことを……僕もう、仕事はどうでもいいですから、温かいコーヒーでも飲みながらじっくりとお話を伺いましょう」
「はあ」

 上野は無理やり路肩にタクシーを止めると、あっけにとられている女性を車内に残したまま、近くのコンビニまでコーヒーを買いに走った。上野には思いついたことを迷わずに、というか、あまり深く考えずに行動に移してしまう癖があった。外資系企業を辞めたのも、その直情径行な性格のせいだと言えなくもなかった。上野は九州出身だから、いかにも九州男児らしい振る舞いだと言えばそうとも言えるのだが、粗忽であるといえばそうとも言えそうである。

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上野が口にした衝撃の一言とは?