父親が進駐軍で働いている間に母親が結核で亡くなると、父親はあっさり進駐軍を辞めてしまい、退職金で茅ヶ崎の北の高座郡寒川町の仕舞屋を買った。寒川には本家と菩提寺があって、そこに母親の墓を建てたと聞かされた。

「弟がひとりいたんだけど、生き別れでいまは行方知れずだな。寒川で親父が何をやってたかよくわからないけど、毎日俺が飯を作ってたんだから、どこかに行って収入は得てたんだろうな」

 寒川で中学を卒業した大久保は、蒲田の町工場に就職して旋盤工になる。

「昔で言う口減らしだったんだろうけどさ、あの頃は、高校行くのは学力が高い子ばっかりで、手に職持てば食うに困らないって風潮だったからさ」

 同級生の何人かが高校に進学せずに就職したというから、決して大久保が特殊だったわけではなかった。

 ちなみに現在、寿地区に暮らす60歳以上の実に96%が生活保護受給者なのだが(平成26年度・寿地区社会調査)、中卒で自活した大久保の言葉に、国や行政への依存心は微塵も感じられない。

 蒲田の町工場で職工になった大久保は、物覚えが早かったこともあって社長にひどく気に入られた。住まいは工場の2階。従業員は社長を入れて14、5人。作っていたのは主に、くろがねオート三輪の部品だった。

 その町工場には、大きな親モーターが一台しかなかった。個々の旋盤は天井で回転している親モーターのシャフトからプーリー(滑車)を通して動力を得る仕組みだった。だから、旋盤を一台だけ動かすのにも親モーターを駆動させる必要があった。

 腕のいい大久保は短納期の部品を任されて徹夜をすることが多かったが、大久保ひとりのために親モーターを回すのは電気代がもったいないし、騒音で他の職工が眠れない。そこで、社長自ら茨城の日立まで出向いて大久保専用のターレット旋盤を買ってきてくれたというから、本当に腕がよかったのだろう。

 しかし、若い大久保にとって“社長の信頼”はそれほどありがたいものではなかった。それよりも、なけなしの給料を懐に先輩たちと夜の町を飲み歩く方が数倍面白かった。「月給は2500円。寮費を1000円引かれて、残りは1500円。それっぽっちの金で、ヨタって遊んでたんだな」

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その後の大久保は…