場所は貸しても作品に口は挟まない

――その新しい写真表現を携えてニコンサロンでデビューした写真家のひとりが土田さんでした。

 ぼくは71年に化粧品会社を退職して、その年にニコンサロンで写真展「自閉空間」を開催させていただきました。その作品で太陽賞(※1)を受賞した。ニコンサロンで初個展をやらせてもらったことは、ぼくにとっての写真家宣言といえる非常にタイムリーな契機でした。

(※1 太陽賞は平凡社主催の写真賞で、新しい写真表現を試みる新人写真家の輩出を期待し、優れた作品を顕彰することを目的とする)

 78年には「ヒロシマ 1945~1978」をニコンサロンで開いて、伊奈信男賞(※2)を受賞しました。そういう意味ではニコンサロンには、私の写真家スタート期から応援していただいています。

(※2 伊奈信男賞はニコン主催の写真賞で、毎年ニコンサロンで開催されたすべての作品展のなかから最も優れたものに与えられる)

 当時、すでにニコン以外のメーカー系写真ギャラリーはありましたが、周囲の写真家も「ニコンサロンで発表したい」と、押しかけて応募していた感じでした。

 そのころは「表現の写真」を発表する場としてはまだ写真集はメジャーではありませんでしたし、雑誌メディアも、例えば「アサヒカメラ」で20ページも発表きれば大したもの、という感じでした。だから、自分の表現を自分の意思とボリュームを持って発表できる場として、写真展というのは大きな意味があった。

 なかでも場所のブランド、文化の中心性を考えたら、銀座がいちばんでしたね。あのころ銀座には富士フォトサロンや小西六ギャラリーもありましたけれど、ニコンサロンは選考委員の審査を通っただけでも評価されるようなステータスがありました。

 ぼくが初個展を開いたころの選考委員はすごいんですよ。木村さんでしょ、土門拳さん、伊奈信男さん、三木さん、西山清さん、稲村隆正さん……。

 そのころのニコンサロンの展示作品には公害問題を扱ったものとか、反政府的なメッセージを持つものがけっこうあったと思います。でも、ワイセツのコードとか宗教的偏在、汚染コードなど法律に抵触する作品以外は規制されなかった。パブリシティーも全部ニコンが引き受けてくれて、そんなことがいっそうニコンサロンの評価を高めた。

――その後、土田さんは92年にニコンサロンの選考委員に就任されました。

 この年に三木さんが急死されて、選考委員の補充が必要になります。誰を補充するか、いろいろ議論したんじゃないでしょうか。その経緯はよくわかりませんが、ぼくがニコンサロンの選考委員に選ばれたというわけです。このときも選考委員は5、6人いて、最終的には多数決で決定するのですが、民主的な協議のうえで個人的な記述による多数決で展示作品を決めていきましたね。当時の選考委員会の会長は、三木さんに変わって佐藤明さんでしたが、同じ一票でした。

 応募作品の審査会にはニコンの担当取締役も出席されていました。でも、決定について何にも口を挟むことはありませんでした。むしろ言わない。「いまのニコンはこうだから、こういう方向でお願いします」とか、「メーカーのスペースとしてこの作品はちょっと困ります」とか、そういうことはいっさい言わないんです(取締役の出席は10年ほど前になくなったという)。

 会社の都合によって作品を精査する、差別化する、ということはなくて、ニコンはあくまでも個人の作品行為をサポートし、映像写真文化のために新しい写真表現をどう支えるか、という方針を崩すことはありませんでしたね。写真文化の発展は、ゆくゆくメーカーとしてのハード(カメラの需要)に帰ってくるという思想だったのでしょう。

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メーカーが展示会場を持ち続ける意味