まず、光秀には華のある出世譚がない。信長に取り立てられたのも、朝廷や幕府との調整能力が買われたものだし、ドラマ映えする派手な武功に乏しい。その点、草履を温めるところから始まって、墨俣一夜城、金ケ崎の退き口、高松城水攻めなどへと手柄がきらびやかに続く秀吉とは雲泥の差である。

 そのかわり、本能寺の変という大博打をやって、三日天下であっけなく散るという、いわば一発屋的魅力があるのだが、それが今ひとつ人気には結びついてこなかった。源義経や楠木正成、新撰組や西郷隆盛のように、判官びいきの恩恵もほとんど受けていない。歴史ファンが偉大なる敗者として抱くシンパシーは、同じ戦国人でも石田三成のほうが上だろう。

 これはやはり、三成が主家と忘れ形見のために戦ったのに対し、光秀が主殺しによって天下を得ようとしたという印象の違いが大きい。そして、光秀はそのあたりも含め、イメージが全体的に暗い。昨年暮れに、歴史学者の本郷和人もNHKの特番でこんな指摘をしていた。

「ともかくあんまり自分の気持ちに正直に動くような人ではありませんね。一回全部、自分の気持ちを押し殺して、行動に移っていく」(「あの日あのときあの番組 大河ドラマで探る 明智光秀の魅力」)

 同時代の宣教師、ルイス・フロイスが書いた「日本史」にも、光秀が信長に対し「誰にもまして喜ばせ、逆らうことがないように心がけていた」という一節がある。気まぐれな主君に過剰適応して、無理を重ねていたことが想像される。

 こうした本郷やフロイスの分析とシンクロするのが、後半生のエピソードだ。比叡山の焼き打ち命令に不本意ながら従ったとか、感染症に倒れて死にかけ、看病してくれた妻が亡くなったとか、丹波攻略で自分の母親を人質に使うことまでしたのに、それが信長の方針に反したことから見殺しにしてしまったというものまである。

 さらに、本能寺の変の数カ月前には、武田滅亡をめぐる失言が信長を怒らせ、暴力的な折檻を受けてしまう。前出の特番では、過去4作の大河でこの話が描かれた場面が連続放映された。どのケースも光秀側に立つといたたまれない気分にさせられる。大河史上、光秀は「太閤記」(1965年)から「麒麟がくる」まで計16作に登場しているが、半世紀以上も脇役に甘んじてきたのはこの視聴者をいたたまれなくさせるキャラに起因するのではないか。

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長谷川博己の演技もまだ「受け身」