というのも、大河の主人公はもっぱら、明るくマイペースで、最後に負けてもどこか爽やかだったりする。今後、光秀らしさが出てくれば出てきたで、感情移入しにくい視聴者も少なくなさそうだ。

 では、それを演じている長谷川はどうなのか。そのキャリアで記憶に新しいのは、連続テレビ小説「まんぷく」でのヒロインの夫役だ。じつはこのとき演じた役のモデル・安藤百福は秀吉型のヒーローだった。それこそ「鳴かせてみようホトトギス」の精神で世界初の即席めんやカップめんを発明し、実業家としても大成功する。その偉業をめぐる妻との協力関係は、39年前の大河「おんな太閤記」のそれにも似ていて、そういうところがウケたのだろう。

 つまり、長谷川は攻めの芝居もできるのだが「麒麟がくる」では受けの芝居を優先しているように思える。キャラの立った英雄(および、帰蝶のような女傑)たちに振り回されながらも、飛躍の機会を待っている状態だ。言い換えれば、SよりMっぽいスタンスなのだが、光秀自体そういうイメージだから、これでもいい。むしろ、このドラマは主人公のMっぽいもどかしさを楽しむべきものなのではないか。

 ただ、このもどかしさには最近の大河全般が抱える問題も影響している。国民的ドラマである以上、主役は特に、現代にも受け入れられる価値観を持っていなくてはならないという問題だ。たとえば「天地人」(2009年)の主人公・直江兼続は平和を好む愛の武将として描かれた。愛という文字をあしらった兜をかぶっていた史実からだが、その由来は愛宕信仰だとする説が有力で、現代的な愛を意識していた可能性は低い。しかし、最近の大河ではあのような描き方が望ましいのである。

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今回の大河は「もどかしさ」を楽しむ