今回の「麒麟がくる」も、聖なる獣・麒麟を平和の象徴に見立て「麒麟は一体、どの英雄の頭上に現れるのか……」(公式サイト)というテーマを掲げている。が、平和への意識を持たされているのはもっぱら光秀で、他の道三、信長、久秀といった人物はわりと自由に権力闘争に明け暮れている感じだ。それゆえ、光秀は傍観者的というか、ちょっと浮いていて、現代人が中世的世界に迷い込んでいる雰囲気すらある。主役なのに、不自由にも見えるのである。

 この流れだと、最終的には、光秀が凶暴化する信長に絶望して、自らが麒麟を呼ぶ英雄たらんとして本能寺の変を起こす、ということになりそうだが、その希望もすぐに潰えるので、視聴者に快感は残らない。最後まで、もどかしさは解消しないだろう。

 とはいえ、これは判官びいきされない敗者・光秀をあえて主役にした大河の宿命でもある。能力的にも性格的にもギリギリのところで天下に届かなかった男のもどかしさ。いわば、主役の不自由性を楽しむことこそ、この王道のようでちょっと異端な大河ドラマの醍醐味なのかもしれない。

宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

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宝泉薫

宝泉薫

1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

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