それから4カ月くらいたって、もう相撲界に入ることへの気持ちが薄れかけた頃、若者頭という相撲部屋のスカウトを任された人が来て、「是非、源一郎くんを相撲部屋に入れてください」と本腰を入れて説得に来た。説得に来た人は泊りがけで10日間くらい家にいたね。

「将来絶対、大関、横綱になりますから」なんて言われたけど、有史以来、60人くらいしかいない横綱になれますからなんて、説得する時によく出る言葉で有り得ない話だよな(笑)。13歳のガキの俺はそれを言われて「あぁ、テレビ中継で6時くらいに出てくる、あんな風な人になりたいな」とお気楽に思っていたね。

 それと同時に今この道を断って60歳とか70歳になった時に「あの時、相撲に行っていたらどんな人生になっていたかな」なんて思いを馳せながら、田舎で田畑を耕して後悔しているような俺にはなりたくないと思った。13歳のガキなのに『チャンスがあるなら』と、そんな気持ちがムクムクと湧いてきたんだよ。

 親父は「絶対に行かせない」って反対している中て、お袋が「最後は本人の気持ちを聞こうよ」と言ってくれて、俺は「許してくれるのであれば、相撲をやってみたい気持ちがある」と。結局、親父はスカウトの人の説得が面倒くさくなったのと、俺が東京に行ってもきっとギブアップして帰ってくるもんだと思って相撲部屋入りを認めてくれたんだ。

 それで、忘れもしない12月29日に福井をたつときに、俺とスカウトの人が乗っている列車のホームへ見送りに来た親父が「頑張れよ、頑張れよ」って涙をぽろぽろ流すんだよね。

 親父が泣いているところを見たのはこれが初めてだった。子ども心に「俺はすごい悪いことしている」という気分になった。窓越しに、手を振りながら列車を追って走る親父を見た時に湧いてきた罪悪感は今でも覚えているね。

 今にして思うと、中学二年生で182センチの82キロあったわけだから有望力士だよ。それでも面白いのが、ある時、部屋にいた弱っちいヤツと相撲を取れって言われて、田舎にいたときは村相撲で負けなしだったもんだから、「なんだよ、コイツとやるのかよ!舐められてんな」と思った。いざ、相撲をとったら、『はっけよい』で、ものの0.2秒で負けた!(笑)三番くらい続けて負けて、「プロは凄い!」って、その時に気持ちが変わって、これは生半可な気持ちではイカンと思った。

 当時は、ベースボールマガジン社や読売新聞社から出ていた相撲の雑誌に「大鵬二世」というキャッチフレーズで騒がれたんだよ、俺も。大鵬二世と言われてたときは、そりゃ嬉しかったよ!大鵬さんがまだ22~23歳で、場所が始まった途端に「大鵬さんが優勝する」って言われるくらい強かったし人気があったからね。「俺は大鵬二世って言われているんだ」って自惚れ出したら、過去に「大鵬二世」って言われた人が5人くらいいて(笑)。「え-!?みんな大鵬二世なの?」って、ショックを受けたもんだよ(苦笑)。

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