継続して活躍してきた選手への評価が反映されにくい新年俸システムに不満を爆発させ、「携帯電話会社と同じですよ。新規加入の人には優しくて既存の人にはそのまま」と、球団と親会社を皮肉ったのが、ソフトバンク時代の杉内俊哉だ。

 10年、杉内は16勝を挙げてリーグ優勝に貢献。07年から4年連続二桁勝利にもかかわらず、提示されたのは、5000万円アップの3億5000万円だった。「保留です。理由は……すべてです。会見に出ることを迷ったくらい」と不満をあらわにした杉内は「1年間やったのに、誠意が伝わらない……」と吐き捨てた。冒頭の携帯電話発言は、翌日、地元局の年末特番に出演した際に飛び出したもの。一夜明けても怒りが収まらなかったことがわかる。

 だが、笠井和彦オーナー代行兼社長が直接出馬して「1年間お疲れ様。君は球団に必要な選手だから」と説得すると、杉内は「球団と社長の考えが大きく違っていたことがわかりました。選手に対して愛情を持つと言っていただいた」と軟化。システムの見直しを要望するとともに、1000万円の上積みを辞退し、当初の金額でサインした。

 これで一件落着したかにみえたが、前記の交渉時に球団幹部が杉内の代理人に「FA権取っても、必要とする球団はない」と発言したことが、翌11年の退団劇につながる。夏の下交渉の際に「4年契約の変動制か2年契約の固定制」の残留条件を提示された杉内は「(前年の幹部の)発言は本当だったんだ」と確信し、シーズン後にFA宣言。4年総額20億円プラス背番号18という「120パーセントの回答」を出した巨人に移籍した。

 球団側の提示を拒否しつづけた挙句、契約を解除されてしまった選手もいる。82年の高橋博士(ロッテ)は法廷闘争寸前までこじれ、翌年2月に再契約でまとまりかけたが、最終的に「キャンプも不参加で体力的に不安」として任意引退となった。オリックス時代の中村紀洋も06年、60パーセントのダウン提示に対し、左手首の故障を公傷と認めるよう主張したが、計6度の交渉も合意に達せず、年明け後、自由契約になった。

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「ぶち切れていいですか」