その歌唱力を何より堪能できるのが「ロマンス」のB面「私たち」だ。全体で3回出て来る「愛しています~」の高音の伸びがとにかく絶品で、マニア向け評論誌「よい子の歌謡曲」10号には「血液中の二酸化炭素が全て消え去っちゃうようなスガスガしさ」(波田浩之)という評がある。これに比肩するものがあるとしたら、あややのデビュー曲「ドッキドキ!LOVEメール」のサビの高揚感くらいだろう。

■高田みづえ、荻野目洋子、そして本田美奈子

 70年代にはもうひとり、高田みづえもいた。こちらはデビュー曲「硝子坂」以来、カバー曲を得意にしていて、それ自体、高い歌唱力の証しである。特に彼女はどんな音楽も歌謡曲にしてしまう異能の持ち主だった。なかでも「潮騒のメロディー」はカナダのピアニストによるインストゥルメンタルに日本語詞をつけたもの。彼女の力業なくして、ヒットは覚束なかったはずだ。

 続いて、80年代の第二次アイドルブームでは、荻野目洋子を挙げたい。「ちびっこ歌まねベストテン」で注目され、小学生女子3人のグループで2枚レコードを出したあと、15歳で本格デビューを果たした。最初のブレイク、かつ最近の再ブレイクにもつながった「ダンシング・ヒーロー」が有名だが、そこにいたる前のアイドルポップスにも佳作が多い。いずれにせよ、ちびっこのど自慢的なところから出発しながら、ユーロビートのダンスナンバーという当時の流行りモノにも適応できたという、間口の広い歌唱力が彼女を一流にしたのである。

 そして、80年代ではもうひとり、本田美奈子(のちに本田美奈子.)がいる。ある意味、本稿の主役的存在だ。というのも、彼女ほど「歌唱力」が両刃の剣となったアイドルはいない。11月6日で死後14年がたったが、もっと別なかたちのアイドルになれたのではと今なお惜しまれるくらいだ。

 彼女に直接聞いた話では「声を出すために使う喉の筋肉」が特別に発達していたとのこと。生まれつきか、歌好きな母といつも一緒に歌っていたおかげかは不明だが、歌手になるべくしてなった少女だった。ただ、本人が演歌志望だったにもかかわらず、事務所にそのノウハウがなかったことからアイドル歌手としてスタートすることに。しかし、彼女がデビューした月には、おニャン子クラブが誕生するなど、実力派アイドルに追い風が吹いている時期ではなかった。

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「1986年のマリリン」の大ヒット