●怨霊の誕生は生者の心から

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」と宣言し、以後、髪も爪も切らず身も整えず、その姿は「天狗」そのものだと評された。このとき、崇徳帝は「自分は大天狗となって、天皇は民となり、民が天下を取るようにしてやる」と言ったのである。加えて、没したのちも崇徳帝は帰京を許されず、讃岐の地で荼毘に付された。この場所にはのちの白峯御陵が設けられている。

 崇徳帝が没した12年後から災いは始まる。幾多の動乱が起き、京は大火で焼け、崇徳帝に対立した朝廷に関係する人々が次々と亡くなる。怖れをなした後白河帝は、保元の乱の戦いの場に「崇徳院廟」(粟田宮)を、崇徳帝の直筆画が奉納されていたお堂を観勝寺(現・安井金比羅宮へとつながる)として建立、崇徳帝の慰霊をしてきた讃岐のお寺(現在の白峯寺)には朝廷からの保護が与えられた。それでも京の災いは収まらず、結局、後白河帝が亡くなるまで、崇徳帝の怨霊は暴れ続けたという。悲しいかな、怨霊とは生者の心に生まれるものであるようだ。

●100年ごとの式年祭は特別の配慮が

 これまで、悲運の中で生涯を閉じた皇族は多くいて、怨霊と化した人物もいたが、仇(かたき)と目する人物が亡くなったことで収まることがほとんどであった。ところが、崇徳天皇はその後も多くの人々の中で恐れられ続けた。まず、二条天皇(後白河帝の次の天皇)は、崇徳帝の遺体を荼毘に付すまで冷やして保存していた場所へ白峰宮を建立、源頼朝は、鎮魂のため崇徳帝の御願寺であった成勝寺(廃絶)を修造、天下安寧を祈願する。

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現在の京都・白峯神宮は…