上野:粕谷さんはがんになって人生観は変わりましたか?



粕谷:今まで生きてきたのとまったく違う人生観にはならないけれど、やはり健康が第一だというのは字面で書くのではなくて身をもって感じますよね。これから仕事も待っているけれど、まず自分の体調を考えてから次のことをするという風に変わりました。以前、少し風邪気味でも仕事に行っていたのとは真逆ですね。

 それと対談を終えるにあたって言いたいのは、あきらめてはいけない、ということです。
 私は主治医から説明を受け提案された新薬の選択を決断してよかったと思っています。先ほども言いましたように、65歳以上でこの病気になると、骨髄移植の選択はごくごく狭められます。そうすると移植もできない高齢者は、余命をどう生きるか、を迫られます。それが「移植をしなくても生きるすべがあるんだ」と、同じ病気に苦しむ人たち、家族が1人でも多く思っていただけたら、この対談の意味がさらに高まります。

 もちろん今年のノーベル賞を受賞した本庶 佑博士の免疫療法も、私が選択したポナチニブを使った治療法も、合う人合わない人はいます。幸いにして合った人は救われます。私は生きる希望を持てた。 

 病気と闘う人たちは希望を捨ててはいけない。生きていれば朝は来る。そう伝えたいです。

上野:私は若かったせいもありますが、一番思ったのは「自分は何も知らなかった」ということでしたね。健康で、受験も就職活動も新聞記者の仕事も努力すれば結果が出る、うまくいかなかったのは努力が不足していたから、というようなところでばかり生きてきたし、新聞記者を3年やって世の中のことを分かったような気になってどこか驕った気持ちになっていたんだと思います。でも自分の努力で解決できない問題があることを思い知りました。自分も含めて病棟の患者たちの気持ちから見えてくる、人間や世の中ってどういうものなんだろうということは、がんにならないまま突っ走っていたら考えもしなかったでしょう。些末なことはどうでもいいから、もっと大事なものを見据えてやっていきたいと思うようになりました。仕事でもっと伝えたいと思うこともありますが、仕事ばかりの人生を送って、もしも明日また告知を受けたときに「もっとこうしておけばよかった」と後悔はしたくない。仕事以外の部分も人生の中で大事なんだよと、教えてもらったような気がします。

(構成/熊谷わこ)

粕谷卓志(かすや・たかし)/1951年、札幌市生まれ。朝日新聞社入社。横浜支局長、東京本社販売部長、同社会部長、役員待遇編集担当兼編集局長などを経て、2009年、取締役東京本社代表、社長室長。2012年テレビ朝日常務取締役、2014年テレビ朝日ミュージック取締役会長。16年6月から東日本国際大学客員教授。1992年、朝日新聞メディア欄の創設で新聞協会賞受賞。

上野創(うえの・はじめ)/1971年、東京都出身。1994年、朝日新聞社入社、2018年10月から東京本社・社会部の教育分野担当記者。1997年に肺に転移した精巣腫瘍が判明、退院後も二度再発。2002年、朝日新聞神奈川版での闘病手記をまとめた「がんと向き合って-一記者の体験から」を刊行。同作で、第51回、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。